哲学
建築のことは本当に何も知らないけど、ハタチくらいまでは、なんで建築家ってのは哲学者めいたことを言うんだろうと、漠然と思っていた。
しかし最近は建築に哲学が必要なことが理解できる。「健康で文化的な最低限度の生活」に不可欠な「衣食住」に、哲学が生まれないわけがない。かつての俺は、哲学ってもんが何か抽象的なアイディアをいじくりまわすだけのゲームだと思っていたフシがある。
そして、俺の実家の形を思い出すたびに、あの家には哲学がないように思える。
俺の父は建築家で、実家は父親の作った設計図に従って建てられた。しかし彼は花形のデザインを専門とはしていない、彼の生業は構造計算というもの。柱の強度とかなんか土台的なものを考える仕事っぽい。俺は本当に建築のことを何も知らない。父のことも知らない。
父の構造計算っていうのは結局、理想のデザインと限られた予算の間の両方を考慮しながら、住宅の安全性を確保する仕事だから、そこは(おそらく)効率の世界で、ゆえに我を張るような仕事ではないのかもしれない。
そんな父は自分の家を建てる時に、どんな哲学に従ってデザインを練ったんだろうか。母は事あるごとに「お父さんはわたしの要望を何も考慮してくれなかった」と言っていた。じゃあ父はいったいどういうアイディア、哲学に基づいて実家の設計図を引いたんだろうか。
それをいつか聞いてみたい。時が来たら。
俺も漠然と、いつかは自分の理想の家を持ってみたいような気がする。そこで暮らし、くたばるための家。その家を建てる時、俺は哲学を持ってるだろうか。持っていたい。家族のための家を建ててみたい、そんな気がする。
まあ、持ち家を持たない一生というのもひとつの哲学ではある。俺はいま自分の哲学が欲しいと言っているだけなのかもしれない。生きてない人間に哲学はないんだろうな。