「あの日を忘れない」じゃなく「あの日から何があったのか」 岡映里『境界の町で』感想文
「あの日を忘れない」なんてことばが毎年毎年決まった日に聞こえてくる、特にテレビの向こうから。
しかしそれを聞かされるたびに「そんなこと言われなくたって俺は忘れねえよ」と思うのだ。あの日じぶんが何をしていて、どんな気持ちになって、どんな風に夜を明かしたのか、それを俺は忘れていない。忘れられない。
急いで飛び出したベランダから見えた波打つ送電線、電信柱にしがみつくおばさんの叫び声、じぶんの胸の鼓動。
部屋にもどって浴槽に水を溜めたこと。様子を見に最寄りの駅の改札前に行ったらみんなが右往左往してたこと。いちどしか喋ったことのないサークルの女がドンキの入口で仲間とひきつった笑い顔を浮かべてたこと。やっとかかってきた海外旅行中の恋人からの電話が俺の安否もそこそこに別の男の心配をしはじめたこと。友人に連絡したらみんなすでに俺の知らない大切なひとと慰めあってたこと。母からの電話をあまり覚えてないこと、テレビをつけっぱなしで眠ったこと、津波の映像に涙が出たこと。
「あの日を忘れない」という宣言は、毎日センセーショナルな話題を振りまいてるメディアの人間たち自身のためにある。ともすれば、彼らは忘れてしまうのだ。仕方ない、それで食っていかなきゃならない人たちだから。責めることはできない。
ただ、メディアのひとたちに提案するなら、俺たちが口にするべきは「あの日を忘れない」ではなく、「あの日から何があったのか」という自省の言葉じゃないだろうか。
『境界の町で』は、東日本大震災とそれに伴う福島第一原発事故後の福島へ取材で赴いた岡映里が、現地で出会った人たちを記録した私小説ともノンフィクションとも言える著書だ。
最初は記者として原発20キロ圏内に「興味本位」で行った彼女はやがて、原発特集が売れなくなり企画も通らなくなったことで、毎週末の休み自腹を切って被災地に通うようになる。
彼女は、福島で出会った元ヤクザで今は原発に人夫出しを行なう建設会社経営の「彼」やその父で町会議員の「お父さん」、ニートをこじらせたみたいな「Y君」、警戒区域にとどまって母の介護をする伊藤巨子(なおこ)さんたちを、この本に記録していく。この本に刻まれた言葉はすべてICレコーダーに録音されていたのものの再現だと言う。毎週通い続けた岡に対して、地元の人々はみんな心を開いているから、赤裸々に語られた補償金の話だったり、プライベートな例えば元妻に不倫された話もそのまま掲載されている。
岡が被災地に通った約3年のクライマックスは、「お父さん」の国政選挙立候補だ。岡は「お父さん」の選挙のために、「減税日本・反TPP・脱原発を実現する党」(脱原発党)から公認を得るべく、亀井静香事務所に連絡を取ったり、選挙公報を作ったり、サイト制作も行う。このときにはすでに仕事も辞めていて選挙運動に同行する日もあったようだ。
選挙カーを走らせているとき、「お父さん」が流し始めた街宣テープからは「日本未来の党のまつもときいちでございます」という男の声がする(脱原発党は、結党式から5日後に小沢一郎の「国民の生活が第一」と合流して消滅し「日本未来の党」が新たに生まれた)。
「誰なのこの声」と岡が聞くと、息子だという。元ヤクザの息子は、その経歴ゆえ表立って選挙協力ができない、だから彼は供託金の援助とこの街宣テープに声を吹きこむことを買って出たのだった。原発作業に人夫出しをしている息子が、「卒原発」を掲げる父の選挙を手伝うといういっけん歪な構図、これが現実だ。そもそも、彼らは震災が起こるまで「7年間絶交」していたという。そういえば、母の介護をするために家に留まり避難していない巨子さんがこんなことを言っていた、「震災が来てわるいことばかりじゃなかったのよ」。
「お父さん」は息子の声を「ワイルドだろぉ?」と言う。
このクライマックスはストーリーとしても感動的なのだけれど、俺がショックを受けたのは、じぶんが忘れていることに気づかされたからだ。
「脱原発党」、「国民の生活が第一」、「日本未来の党」、そして「ワイルドだろぉ?」。すべてそれらが話題になっているときから「一発屋」に対するような冷ややかな視線があったとは思うがしかし、俺はこのエピソードに出くわさなければ、これらの党名やギャグを思い出すことは一生なかっただろう。嘉田由紀子とかいたなあ……。
俺は、あの日は忘れていないけど、あの日からのことをほとんど覚えていない。この『境界の町』は、あの日から何が起こったのか、そして被災地に生きる人々があの日からどうやって過ごしてきたのかを記録した貴重な本だ。俺たちは、すぐに忘れるから、岡映里のような試みには敬意を表さなくてはならない。
いましろたかし『原発幻魔大戦』という漫画がある。ある人にこの本を勧められて読み始めたとき、反原発や反TPPを声高に訴えて運動にも参加する登場人物たちにまったく感情移入できず引いていた。しかし読み進めるにしたがって、作中でも時間が過ぎているのに、それでもじぶんたちの感じる国や政府や社会への違和感を、日常生活を送りながら、オナニーしながらも考え続ける主人公たちは、俺よりずっと偉いんじゃないかと思うようになっていた。彼らはあの日に受けたショックをずっと引きずっていたから。
岡映里はそれ以上だった。東京は脱原発を議論する場所だったけれど、福島はそこに生活があった。仮に脱原発が決まったところで、いますぐ原発事故は収束しないのだから。野田佳彦が収束宣言したから、安倍晋三がアンダーコントロールと言ったから、すべてが終わるわけではない。
「あの日から何があったのか」、俺たちは問いかけ続けなくてはならないだろう。