手に負えない現実や芸術のまえで ―いつも通り個人的な話と『花束を君に/真夏の通り雨』の感想
夕方6時前、本を読んでいたら眠くて仕方なくなったから眠った。
起きたら日付は変わっていて、熊本では大きな地震が起こり、宇多田ヒカルは新曲をリリースしていた。
たとえば有名人が死んだとき、「◯◯さんは3日前の午後帰らぬひととなりました」と報道されたとする。ぼくらは彼・彼女の死を知らずに3日間を過ごしていた。その間ののんきさというか、まあ、知る由もないんだけど、なんとなくその変わらない日常があったことにハッとする。
彼・彼女が世界から欠けたことに気づかなければ、ぼくらはなんとなく日常をずっと続けていく。
たとえば、ぼくがこの家で孤独死したとして、世界がぼくの死を知るまで、どれくらいの時間を必要とするだろうか。
母が永遠に意識を失った瞬間も、ぼくは眠っていた。昼と夜のあいだくらいの時刻、ぼくは眠っていた。
宇多田ヒカルの新曲、どちらもめちゃくちゃよかった。
「とと姉ちゃん」で毎日聞いてるのに、「花束を君に」はフルで聞いたら、しっかり驚かされた。
ひとつひとつの音が粒だってて、下から上まで前から奥まで、それぞれの音がそれぞれの場所で役割を果たし、そのまんなかで宇多田の声が守られている。
これほどの歌唱力あるひとを捕まえて「守られてる」なんて言うと首をかしげられそうだけど、そう言いたくなるのは、この歌詞で歌われる感覚があまりにももろいからだ。
毎日の人知れぬ苦労や淋しみも無く
ただ楽しいことばかりだったら
愛なんて知らずに済んだのにな「花束を君に」
凡百の歌詞だったら、苦労や淋しさがあるからこそ、楽しさが際立つなんて言ってしまうところ。おそらく彼女は己の感情と向き合った末に、楽しいことばかりのほうがよかった、愛なんて知らなくてよかった、と言う。それでも、言いたいことはやまほどあっても伝わらないとまで言わざるをえない。「今日は贈ろう 涙色の花束を君に」と歌うことしかできない。
「真夏の通り雨」も、止まない雨はないなんて歌わない歌えない。「降り止まぬ 真夏の通り雨」。宇多田ヒカルの母、藤圭子が亡くなったのは、2013年の8月22日だ。
今日私は一人じゃないし
それなりに幸せで
これでいいんだと言い聞かせてるけど「真夏の通り雨」
「真夏の通り雨」は「花束を君に」以上にパーソナルで渇いた歌になっている。ピアノの伴奏だけで歌われる1番につづいて、先に引用した歌詞が重低音の鼓動のような音とともに歌われる。このビートはこの歌詞が終わるといったん止む。そして「あなたに身を焦がした日々 忘れちゃったら私じゃなくなる 教えて 正しいサヨナラの仕方を」と、またピアノの伴奏だけで歌われる。
「真夏の通り雨」と名づけられたこの曲は、アウトロは「ずっと止まない止まない雨に ずっと癒えない癒えない渇き」と歌い続けられそのままフェードアウトしていく。
つらくてつらくて仕方がない、別れたあの人を忘れてしまえたらどんなにラクか、わたしはいまそれなりにしあわせなはずなのに、それでもあなたを渇望してしまう。
ある種の傑作についての感想は、それを言葉で再現しようとするだけの虚しい試みにしかなりえないんだなあ、とこれをつれづれ書きながらおもった。
きょうの夕方眠る前に読んでいたのは岡映里『境界の町で』で、だからきょうのブログは、3.11の個人的な思い出話でもしようと思いながら夢に落ちてった。起きたらまた新たな大きな地震が記憶に刻まれてしまった。
ぼくのいまのキャパシティでは、じぶんの目の前にある現実も芸術も手に負えない。