ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

食べ終わったらすぐ食器洗いした方がいい

夫婦のあいだで、食器洗いはぼくの担当だ。妻が夕飯を作ってくれた日も、ぼくが作った日も、基本的にはぼくが食器を洗う。料理が下手なぼくが、少しでも家事に貢献したいと思ったら、慣習化した。

 

たまたま3日連続でぼくが夕飯を作った、とは言ってもカレー、ラーメン、キムチ鍋。ぜんぶ市販のルー、袋麺、鍋の素を使っているから大したことじゃない。まあ、包丁は握ったし火も使ったのでちゃんとした自炊ではある、ぼくはえらい。

 

で、食器洗いの話。昨日は夕食後も仕事があったので、仕事が済んでからやろうと思い、食器は流しに置いておいた。しかしいざ仕事が終わると眠いので、明朝やることにして寝た。

昼前に起きた。昼ごはんはコンビニで買って食べた。夜になる。昨日使った食器はまだ流しの中にある。

食器洗い、すごく億劫だ。今日は鍋をやろうと思っている。その前にこの洗い物を片付けなくちゃならない。つまり今日は《昨日の食器を洗う→今日の晩飯を準備する→今日の食器を洗う》という流れ。一度の料理において、二度の食器洗いが必要になってしまった。

昨夜食べてすぐ洗ってしまえば《晩飯作り→皿洗い》で完結したのに。少し怠けたがために、昨日のタスクが今日のやる気を侵食している。

 

ここで気づいたのは、一人暮らしのときなぜ自炊が続かなかったか、ということ。自分のために飯を作り、食べ、片付ける。当時のぼくは、食べてすぐ片付けるのが、なんかイヤだった。めんどくさいからというよりは、惨めな感じがしてしまうからだ。食べてすぐ食器を片付けて洗うなんて情緒がない。食事が作業的に感じられる。

ということで、食器は放置した。しかし、時間が経ったら洗うかといえば洗わない。食べ終わってしばらくすると、その食器を洗うのは、先の食事とは関係のない単発の作業になってしまう。「作業的」を厭うたがために、「作業」する羽目になっている。言葉にしてみるとバカバカしいけど、当時そういう現象が起こっていたのだ。

食器や調理器具は翌日もそのまま。その光景を見ると食事を作る気は失せる。料理が後片づけから始まることを無粋だと思ってしまう。そしてせっかく芽生えた自炊欲もどこへやら、コンビニに弁当を買いにいく。多めに買っておいた野菜や肉は冷蔵庫の中でくたびれていき、シンクの食器に溜まった水からは小蝿がわいてくる……。小蝿のわくような皿はすごく汚いので、通常よりも入念に洗う、時間がかかる。食器洗いが嫌いになる。

この悪循環に陥っていること、ひとり暮らしのころはわかってなかった。

 

食事後の「ちょっとめんどくさいな」の気持ちは殺す。情緒がないとかわけのわからないこと言ってないで、さっさと洗う。そうすることで、明日の食事作りをラクな気持ちでスタートできる。《料理→食事→後片付け》をひとつの塊として認識する。そうすれば、比較的ラクになる。

明日のやる気を守るために今夜ぼくは食器を洗う。