「頭が良い」は無価値
すごく頭が良いのになんら世の中に評価されてない人を見ると「もったいない」と思ってしまう。俺だったらその「頭の良さ」という価値を金や名誉に変えようと思ってしまうだろう。優れた脳みそを動かして何か作品を作って、世の中に問おうとするだろう。
なんだか卑しい。
頭が良いってことだけで満足はできないんだろうな、俺は。それは頭が悪いのかもしれない。それとも本当に頭が良くなれば、この卑しさは消えるのだろうか。
でもまあこの前提から話を進めよう。
俺が自分のものさしで「すごく頭が良い」と判断したその人は、自分のことを「まだまだだ」と思っているのかもしれない。とすると、俺のことを「頭が良い」と考える人もいるのかもしれない。人の数だけものさしはあるから。
俺も誰かにとっての「もったいない」存在なのかもしれない。金や名誉に変わったり、優れたものを生み出せる可能性があるのかもしれない。現時点で、既に、価値ある脳みそを持っているのかもしれない。
もちろん、価値に変換するためには仕事が必要だ。それは難儀なことだろう。けっきょくのところ、頭が良くてもその脳みその思考結果を出すためには、体を動かさなくちゃいけない。体を動かすのはめんどくさい。
頭が良くても体を動かさないと何の価値にもならない。頭が良いだけではダメだ。
ここまで書いたところで日付が変わったので以下追記。追記は甘えだ。
頭が良くなるためにも体は動かさなくちゃいけない。ものを知るためには例えば人の話を聞く、本を読む。思考を鍛えるためには例えば人と話す、文章を書く。聞いたり話したり、読んだり書いたりも、体を動かすことだ。年をとって読書ができなくなったという人はたくさんいる。老眼になったり、同じ姿勢を長時間続けられなかったり、集中力がなくなったり。これはつまり体力がなくなったということで、彼らは体を動かせなくなったのだ。
ということで、上京してからまったく勉強(聞いたり話したり、読んだり書いたり)をしなかった俺はやっぱり頭が良いとはいえない。無価値だ。
なんかもう少し努力すればこの文章はもっと良くなる気がするけど、俺には体力がないのでここまで。
だから頭が悪いのだ。