牛乳石鹸のCMのこと
牛乳石鹸の話題は、「ここで描かれようとしている主題はなんなのか?」という疑問と「これはCMとしてどうなの?」という問題を分けて話さないことには、どうしようもないと思った。
「主題はなんなのか」については俺なりの解釈は容易にできた。子供のころ憧れた理想のオヤジ像が認められない現代に対するモヤモヤ、そんなとこだと思った。
かつての家父長的なオヤジが失われし今、彼らをロールモデルとしてやってきた息子たちは、自分の子供たちへの振る舞い方で迷う。
父に憧れていたのに、その憧れ自体を否定される現代。その価値観の変化は理解できるけれども、自分の憧れたオヤジをカンタンに「さ、洗い流そ。」なんてできるわけがない。それでも家族のことは大切に思うから風呂でリフレッシュして、なんとか明日も変わりばえしない日常をやっていこう、というのは真っ当な人間のやり過ごしかただろう。理想と現実、その相克のなかで人間は生きている。すべてを忘れることはできないけど、1日のモヤモヤくらいは牛乳石鹸で洗い流して明日からまたがんばりましょう……。俺が牛乳石鹸のCMに読んだ主題はこんなところだ。
でも、このCMが炎上(?)した原因は主題がわかりづらいことなんだろう。だから俺の解釈が人のそれとズレてる可能性は多分にある。なのでこの文章は先の俺の読み方に基づいてこの後進んでいく。
映像の陰鬱なトーンや淡々とした編集のリズム、そして新井浩文の表情やキャラクターが醸し出す不穏さが、このCMをネガティヴにイメージさせるようになっている。「実は新井浩文は家族を殺しバラバラに解体してその血を牛乳石鹸で洗い流し、翌朝死体をゴミ袋に入れたのでは?」みたいな解釈が成り立ってしまうのも、そういう映像のつくりゆえだろう。ここでの新井浩文は、お風呂に入って体を洗ってリフレッシュしたようにはとても見えない。
「これはCMとしてどうなの?」という話とも関わってくるが、小田嶋隆さんの次のツイートが、このCMが話題となった理由として決定的だと思う。
わかりやすいCMを作らねばならないという至上命令にうんざりしている広告クリエーターが、Web版の動画なら……と考えて作ったのが例の牛乳石鹸の例のブツで、彼らは、わかりにくさがすなわち作品性だと思いこんでしまっている哀れな映像作家ワナビーなんだと思う。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2017年8月16日
牛乳石鹸のweb広告動画の微妙な後味は、出来不出来やテーマ性の問題とは別に、あの映像の作り手が、クライアントの資金を使って商品とは無関係な自己表現をたくらんでいるところに由来しているのだと思う。
— 小田嶋隆 (@tako_ashi) 2017年8月16日
ここからが俺の今回の騒動に対する違和感なんだけど、「CMとしてどうなの?」という疑問を一消費者である我々がなんで考慮してあげなきゃいけないのかが分からん。
小田嶋さんと同じように、俺もこのCMは映像作家ワナビーの失敗作だと思う。牛乳石鹸という商品をポジティブに宣伝するようなCMにはなっていないし、「黒沢清を思わせる」なんて言われるような中途半端な作風はテーマをぼやけさせてしまっているからだ。
しかしそもそも、人々はこのひとつのCMの是非についてこんなにかまびすしく議論する必要があるのだろうか?この広告が徹頭徹尾クソだったとしても、俺らはこの広告をお金を払って見たわけでもなんでもない。身銭を切って見た映画がつまらなかったり、自分の好きなミュージシャンのMVがガッカリな出来だったら文句のひとつも言いたくなる。それは分かる。でも別にこの会社の株主でもなく、CMに制作費を出したわけでも、牛乳石鹸のファンでもない人間が、老婆心なのかなんなのかよく分からない感情でもってこの作品について文句を言っているように、俺は感じる。
なんか「あのCM意味わかんなかったな〜(笑)」くらいの感想で消費されてしかるべきレベルのCMがこんな風に盛り上がってしまってるのを見るとモヤモヤする。俺のモヤモヤを牛乳石鹸は洗い流してくれるんだろうか。
「もう牛乳石鹸買わない!」って言えるのはもしかしたら気持ちのいいことなのかもしれないな。というかどこの誰がそんなに怒ってるのかもよく分からなくてなんだか気持ちの悪い騒動だと思った。
ちなみに俺は今回のことで初めて牛乳石鹸というものを知った。