多分この話 これから何回もするから 忘れていいよ
夢を見た、母が床に臥せっていた。目覚めた僕は、あ、はやく実家帰って看病しなきゃ、と思ったけれど、もうとっくに彼女は死んでいたんだ、と数秒後に思い出した。こういうのははじめてのことで、えらくナイーブな勘違いだったから笑ってしまった。寝起きで笑うと咳き込むらしい。
僕はこういう風に自分に起こった「不幸話」を紹介しながら「笑ってしまった」という語り方をするクセがある。もちろん親が死ぬというのは一般的にはものすごく悲しいことで(もちろん僕もものすごく悲しかった、いまはあんまりよくわからない)、だから笑い話にしようとすると、聞き手は困ってしまうものだ。そもそも、僕のユーモアのセンスが著しく低いという可能性もある(たぶん低い)。
こないだ。勝新太郎が死んだ母親の股ぐらにキスしてやったって話はめちゃくちゃかっこいいじゃないですか!僕が母親への歪んだ愛情をユーモアにくるんで表明するのはダメなんですか!って大人の男性に言ったら彼は「いや、俺らは勝新じゃないから……」と苦笑いしてくれた。そりゃそうだ。
平野レミが父親?の遺骨を食ったという話を、和田唱と上野樹里の結婚が話題になった際に、はじめて聞いた。
僕も母親の遺骨をひとつまみ食った。家に誰もいない時間、骨壷を開けて、粉になっている部分を人差し指と親指でつまんで口に入れた。別になんてことはなくて、だからその行為をした記憶はあるけれど、味とか沸き起こった感情とかは覚えていない。食べてないひとでも想像したらすぐわかるように、母の骨はジャリジャリしていた。
僕は平野レミじゃないから、この話もまったくおもしろくない。
こないだ別れた恋人が、最後にベッドに残していった長い黒髪3本、その辺にあったノートから1枚ページを切り取って折りたたんで、そのなかに入れた。けど、それを取っておくのもなんだか難儀でかといって捨てるのはもったいないというか忍びないというか惜しかったので、食べた。
むかしからなんでも口に入れたくなってしまうタチで、指の爪も噛んでたし、ペットボトルのフタとボトルの接合部分の輪っかとかいまでもたまに取り外してずっと噛んでしまう。味は無くていい、しいて言うなら味はないほうがいいのかもしれない。味がある場合は、苦手な可能性もあるから。
そういえばこないだツイッターで、納豆って1回しか食べたことない、あれは別においしくないしわざわざ食べるようなもんじゃない、ってつぶやきを見たのだれど、人間はおいしいものばかり食べているわけじゃないのにその言い草はいかがなものか、と思った。米とかお茶とか別においしくないけど食べたくなるし飲みたくなる。僕のつくる野菜炒めはぜんぜんおいしくないけれど、週に1回はわざわざつくって食べる。うーん、でも野菜炒めだとわざわざ食べるべきもの感があるなあ……。納豆はわざわざ食べなくてもよくって野菜炒めはなるべく頻繁に食べるべきってのはなんとなく印象としてあるなあ。これは僕の負けか?いや、でも、ペットボトル入り緑茶ってべつにことさらおいしいわけじゃないけど、飲むじゃん。なのに納豆っておいしくはないのになんでみんな食べるの?みたいなこと言われると「はてな」となる気がする。だって彼は「納豆はおいしくはない」と言っていただけで「納豆はまずい」とは言ってないんだもの。彼が「納豆はまずい!」って言い切ってたなら、ここまでこだわらないよ。
気づいたらいまイヤフォンのコードを口に含んでいた。それくらいに僕は口元に何かを持っていきたくなる人間だ。イヤフォンのコードなんて別においしくないのに!
というか今思い出したけれど、こういう話すでに書いてました→口唇期なう。無自覚に同じ話をしちゃうのつらい。
これから行われる大森靖子メジャー2ndアルバム『Tokyo Black Hole』の発売に際して行われるツアーのポスターにはこんなようなことが書いてあった、「多分この話 これから何回もするから 忘れていいよ」。
どうやって解釈すればいいんだろう、と、ここ1週間くらいぽちぽち考えている。とはいえ少なくとも、俺のような人間が言っていい言葉なような気はしない。彼女が言うからこそ僕らは、彼女の話を毎回忘れたくないという思いを強くしながら聞く。まあ忘れてしまうのだけれど。悲しいことに。
しかし、「これから何回もするから」という言葉はやっぱり信じられない。人は急に死ぬことがあるから。もしかしたら、そう言われたその日が彼女との最後の再会になるかもしれないから。なんて言ってみたところで、いまぼくはひとりベッドの上にあぐらをかきながらこれをタイプしているからナイーブな心持ちになっているだけであって、大切なひとたちと会うたびに「これが彼女に会える最後の機会かもしれない」なんて思うわけがない思えるわけがない。そもそも、いちいちそんなこと思っていたら、毎回の再会がドラマチックになってしまってかなわん。
また会えると信じているから、僕らはいつも通りでいられる。
また会える、と思いながら手を振り別れた母の姿は、バスの車窓から見える母の姿は、とても寂しそうで、考えてみたら、僕はいつも空港の検査場を立ち去っていく側で、見送る彼女の姿をずっと見ていた経験はそれまでなかったわけで、立ち去りながらずっと彼女を視界に収めていたのはあれが最初で最後だったのだ。
彼女はいつもあんな表情を浮かべていたんだろうか。かなわん。