ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

暑いのに

食事中、ふと隣に座る娘を見ると、上手に箸を動かして食べものを口に運んでいる。偉いなぁと思う。そして向かいに座る妻に目をやると、これまた上手に食事をしている。偉い。みんな誰かから教わって食事をとれるようになっている、そのすごさ。そして俺は、俺に食事の仕方を教えてくれた(であろう)母を亡くし、父と疎遠になっていることを思い出す。

 

最近は、あいかわらず暑いというのに、夕方の太陽光は秋めいていて、なんだかそのことにひどく落ちこまされる。

 

いいかげん疲れた。10月中旬まで暑いらしい。

きっとかわいい女の子だから

「抜けた歯を土に埋めたらどうなるの?」と聞かれて「歯の持ち主がもうひとり生えてくるよ」と答える。娘はけらけら笑う。
生えてきた人は、元の人と見分けがつかないし、まったく同じ記憶を持っているから、どっちがどっちかわからなくなる。だから抜けた歯を勝手に土に埋めちゃダメだよと付け加えると、「ドッペルゲンガーってこと?」とか言い出す。6歳はそんな言葉も知っている。

 

保育園で誰かとケンカした話をしているが、帰り道はあまりに暑く、娘の話を聞く余裕はない。生返事をしていると「まぁ僕も悪かったんだけど」という言葉が耳に入ってくる。そんな微妙なニュアンスを話せるようになっている。

 

「時計を少し覚えたよ、1は5、2は10、3は15、4は20、5は…25、6は……」。娘は一日10時間くらい保育園にいて、先生と友だちのおかげでたくさんの刺激と学びを得ている。そうやって少しずつ知らない人間になっていく。

 

娘のことを知るように意識していかないと、いつのまにか他の子と見分けがつかなくなってしまうかもしれない。他の子と同じように接してしまうかもしれない。SNSなんか見てる場合じゃないんだよ。

 

よどんでる

えらそうに仕事で忙しぶって、ブログを書かなくなってしまった。

このブログを始めた2016年は25歳のニートで、ここだけがよりどころだった。停滞した日々でよどんでしまった頭の中。文章を垂れ流すことで、日常が動きだし、頭の中も流れ出し、濁りは少しずつ消えてった。結局、就職することもなく、フリーライターになって運良く途切れない仕事の依頼をこなしていたら、2023年も半ばに33歳になった。

33歳!おそろしい!部下も上司も同僚もいたことないから、この年齢だと社会的にどのくらいの立ち位置なのかわからず、未だに若手みたいな自覚で仕事してきた。けど、もういいかげんキツいっぽい。

大学を卒業してから、どこにも所属したことがないので、ライターとしても社会人としても基礎がないなと思う。それでもそれなりに働けてる自分の状況を、ちょっと前までは肯定的に捉えていた。「俺、よくやってるじゃん」と思ってた。でも歳を重ねて、いい年になって、このままじゃキツそうだと気づきはじめてる。もうごまかせない。ハリボテは倒れかけている。フリーランスには誰も何も教えてくれない(ただし、在宅で働く正社員の妻にメールの文面を相談したり、仕事のグチを言ったりはしてる。すごくしてるし、すごく助かってる)。

フリーランスで仲間もない。このままだとそう遠くない未来、にっちもさっちもいかなくなりそうな予感が、急にすごい。

 

そんな感じ。

 

まあこんな感じでまたよどんできた。5月21日が誕生日だったので、ブログを再開することにした。いいかげん澄みたい。

黙ってたら仕事なんて来ない(2021-03-23)

赤坂での取材終わり、「僕、四谷駅まで歩いて電車乗るので…」というと、編集の人も「じゃあ僕も歩きますよ」と言ってくれるので、ふたりで30分くらい赤坂御用地のあたりを歩く。同年代の編集の人とちゃんと喋ったことなかったので楽しかった。僕らは青春ゾンビに育てられましたよね……みたいな話ができる人に出会えて嬉しい。この編集の人は、原稿も真剣に見てくれてるし、僕のことも尊重してくれるので、長く付き合えたらと願っている。ライターとして尊重されてるな、と思えることってあまりないから嬉しい。

 

同年代の同業者の知り合いがまったくといっていいほどいない(そもそも俺は知人友人が極端に少ない人間だ)。もっと仕事の幅を広げて、いろんな人に会っていかないと、この先ないな、という危機感がさすがに大きくなってきた。俺には才能がない。人と出会わないいと仕事なんて来ないのだ。娘のようにいろんな人に気軽にあいさつをしていこう。

 

帰宅中、妻から「なんの歌でしょうか?」と娘の動画が送られてきた。通信制限中なので2分くらいかけてダウンロードすると娘が歌ってる。すぐには分らなくて悩んでいたが、ようやく分った。大森靖子「堕教師」の“天使なのに 生まれっちゃってさ”の節だ。娘の大森さんレパートリーが増えたようだ。他には「絶対彼女」と「Rude」、「ZOC実験室」あたりをよく口ずさんでる。

大森さんが自宅に来て「Rude」歌ってくれる試み、応募しようか迷ってる。

『フォード vs フェラーリ』の感想ではない

眠れない男が寝室を出て廊下を歩いていると、子供部屋から光が漏れている。まだ起きていた息子に何をしていたのか尋ねると、息子は自ら描いたコースレイアウトを男に見せる。息子の正確な絵を見ながら、男は完璧なレース運びを話してやる。目を覚ました女がその様子を見る。翌日、男は「ル・マン 24時間耐久レース」に出るため、フランスへと旅立つ。息子も妻も、そのレースの重要性と恐さ、そして男のレースに賭ける想いをちゃんと知っている。

『フォード vs フェラーリ』のこのシーンでとめどなく涙が流れてしまった。「俺の涙はまだちゃんとしょっぱいんだな」と思うほどに泣いた。コースレイアウトを見ながら、父と息子はコミュニケーションが取れてしまうその関係性に泣いた。息子はいつも父の仕事場にいるし、ツーシートの助手席にも時々乗せてもらう。

思ったことをすぐに口に出してしまって、喧嘩っ早い職人気質で、しかしその才能と技術は天賦のものだからこそ、社会のほうでは男の扱いに困ったりもするわけだけれど、家族にとっての男は、良き夫で良き父だ。男と家族の話は徹頭徹尾、男の仕事の話に終始するというのに、家族は彼をパーフェクトに受け入れている。「そういう男の姿に憧れて俺は泣いてる」と思っていたが、しばらく経ってはたと気づく。こんなに泣けてしまうのは、スクリーンに映る男の姿に憧れているからだけでなく、あんな父親が欲しかったという後悔すらできない哀しみに撃たれていたからだった。

 

僕の父は建築士だった。家族でドライブをするたびに父は「あれはお父さんが設計したんだよ」と言ってさまざまな住宅やビル、校舎や体育館を指差したものだった。しかし僕は彼のそういう姿を苦々しく思っていた。自分の仕事をわざわざ口にしてどういうつもりなんだろうか、僕ら家族になにを言ってほしいのだろうか、褒めてほしいんだろうか、と思うと父が小物に見えてしまって「そうなんだ」と相槌するしかできなかった。

休日には庭で焚火をして芋を焼いたり、日曜大工に勤しんだり、趣味のボウリングに出かけたりしていた。僕はそのすべてがイヤだった。庭から立ち上る煙が2階のダイニングに入り込んでくることも、休日の朝からトンカチやらノコギリやらで音を立てることも、ボウリングのフォームがちょっと滑稽なことも、みっともないと思っていた。

でも今となっては当時父のやっていたことのすべてに憧れている僕がいるのだ。焚火ができるような庭を持つ家を建てたことも、日曜大工ができる器用さも、ボウリング没頭していく凝り性も、そのすべてが今の僕にはないものだから。父にもっといろんなことを教わればよかったのに。僕は母の言うことをすべて鵜呑みにして、父のことを「ダメなやつ」だと決めつけ、彼のやることなすことすべてを否定しまっていた。学ぶべきことは多かったはずなのだ。父は「一緒に火をおこそう」「ノコギリ教えてやるよ」「ボウリング行くか?」と不器用に誘ってくれたのだし。幼少期の僕は、バイクに跨る父の腰に手を巻きつけたし、床屋にも連れてってもらった。スターウォーズティラノサウルスの骨や皇后ジョゼフィーヌのティアラやヤクルトスワローズのオープン戦だって見せてくれたというのに。

 

『フォード vsフェラーリ』の父子は幸運にも、車の仕事によって十全に分りあえていた。その姿に僕は憧れて、泣いてしまったのだ。そして、こういう父子ほど別れなければならないのだろうな、ということに薄々気づいていたから、涙を止めることができなかった。

僕と父はお互いまだ生きているが、もう2000キロ近くも離れたところで別々の暮しをしているわけで、彼とは一生通じ合うことはないだろう。GT40を完璧に乗りこなせれば半日足らずでたどり着ける距離だが、僕はあいにくペーパードライバーでまともに運転ができない(さらに言えば自転車にもろくに乗れない)。

 

自分の家族とは、子供とは、分りあいたい。30年前、父もそう思っていたことだろう。

「大森靖子生誕祭」(2019年)をシラフで見た感想文

大森靖子さんの生誕祭に行った。

2016年がはじめての参加だったから、今年で4回目。2016年の大森さんは29歳だった。今年は僕が29歳。なんだか途方も無いものを感じてしまう。今年、大森さんは32歳。

 

生誕祭に毎年出演するジョニー大蔵大臣さん(水中、それは苦しい)とぱいぱいでか美さんは、毎年ここでしかパフォーマンスを見ていないのもあって、毎年恒例行事感が増す。生誕祭の帰り道にいつも口ずさんでしまうのは「PAINPU」だったりする。

そういえば「芸人の墓」も聞きたかったな。水中、それは苦しいのライブ見に行くしかない。

 

毎年ここでしか会わないふたり(ぱいぱいでか美さんは、ビバラポップでも見れるようになったのだった)のパフォーマンスを見てると、その明るさとは裏腹になぜか「死」を感じてしまう。毎年着実に死に近づいていく僕らという限りある存在が意識されてしまう。ジョニーさんもでか美さんも、盆正月に会うたび目に見えて老けていく祖父母とは違って、見るたびにパフォーマンスに磨きがかかっていて進化しているのだけれども、その“変化”が1年という時の長さを突きつけてくる。ジョニー大蔵大臣の息子がステージに上がり、3人で「チュープリ」(ZOC)を披露していたが、その息子が1歳くらいのときに大森さんの月イベント「続・実験室」に登場したのを僕は見ている。彼は圧倒的成長過程にあるけど、でもやっぱり僕らと同じように死に近づいている。なぜだかそんなことばかり考えてしまう、おめでたい場なのに。

 

と思ってたら、大森さんは黒に身を包んで現れた。天邪鬼な彼女は、おめでたい場にみんながピンクを着てくるだろうから逆に喪服を纏ったと言っていた。 話は飛ぶけれど、アンコールでケーキを持って出てきたジョニーさんが「僕は5番師匠だけど、ほかの4人の師匠は誰?」と聞いたとき「加地さん?まあもう死んだけど。私、超えたしね(笑)」と言っていたのにグッときた。メジャーデビューして、超歌手になって、ビバラポップというアイドルフェスのプレゼンターを務め、ZOCを作りアイドルにまでなった大森靖子のはじまりの場所には加地等がいたこと、その人はもう死んでしまったということ。生前の加地等さんを知らない僕がこんなことを知ったような顔で書くのは憚られるけど、そんな軌跡に想いを馳せて勝手に感傷に浸ってしまった。

 

【セットリスト】

1.Over The Party

2.ZOC実験室

3.Re: Re: Love

4.VOID

5.非国民的ヒーロー

6.MC(ホールコンサート開催とベストアルバム発売の発表)

7.7:77

8.JUSTadICE

9.きもいかわ

10.君に届くな

11.アナログシンコペーション

12.あまい

13.TOKYO BLACK HOLE

en)

1.ミッドナイト清純異性交遊

2.絶対彼女

 

大森さんのライブは2017年の三十路初のライブと同じく「Over The Party」で始まった。「進化する豚」のフレーズを会場全体で叫ぶのいつまでたっても痛快。個人的に「イカれたニートイカしたムード」を聴くと未だにドキッとする。一気に白壁に囲まれたワンルームに引戻される。

「ZOC実験室」を経ていきなりの「Re:Re:Love」に面食らう。聴きたいと思ってた曲が序盤に来ると、まだ状態整ってないからうまく受取れなくなってしまう。

そういえば今日はいつぶりか覚えてないくらい久しぶりに、シラフでライブを見た。大森さんにはなるべくシラフで挑もうと思ったから。

http://massarassa.hatenablog.com/entry/2019/05/21/000936

500円と交換したドリンク券をミネラルウォーターと交換するのすごく贅沢で一瞬躊躇われてしまった。アルコールを入れずに臨むライブは心が浮ついてしまって最初から没入することができなかった。ここ数年、僕はアルコールに頼り過ぎていたなと感じる。シラフでライブハウスにいると、漂うビールの香りに気づく。

「Re:Re:Love」のときもまだどこかそわそわしていて、まともに受けきれなかったのが悔しい。峯田のパートを歌うサクライケンタさんの声が少年と青年のあわいを漂うようですごくよかった、まだ未熟で苛立ちも感じさせるけれど、その視線の先は途方もないところを見ている、そんな歌声だった。

 

「VOID」の前のMCだったか、大森さんが「私の部屋で生まれた曲があなたの部屋に届いてライブハウスで会えた」というようなことを言った。思えば、空間に間仕切りのないライブハウスも巨大なワンルームだ。“一番汚いとこ”見せ合う“ワンルームファンタジー”が繰り広げられる空間。僕を守ってくれて、かつ、僕をひとりぼっちにさせないワンルームは、大森靖子が歌うライブハウスだった。大森さんが「家を抜け出して僕の部屋においで」と、イヤホンを通してずっと誘いかけてくれたから、2014年の僕は大森靖子に出会えた。それから人生が少しずつ進み始めたんだった。

 

「JUSTadICE」での大森さんの舞は、ZOCの振付を担当するrikoさんを彷彿とさせながらも、rikoさんのしなやかで優美な動きともまた違う、力強いものがあった。

大森さんのステージ上での動きでいうと、腕と手の動きは遠くからでも見通せるからやはり見逃さなくて、“夢の延長戦地球に刺繍する」ところのなまめく手は妖しげで、「アナログシンコペーション」で腕をスッと渡る指先は、刃物で腕をサクっと裂いているようで鮮血を幻視してしまい、目を背けたくなるほど美しい。

 

今日もっとも感動したのは「きもいかわ」「君に届くな」「アナログシンコペーション」の流れだった。「きもいかわ」はアレンジが素晴らしかった、幽玄が煌めいて東京の今を満たす。「助けてって言える人生でいてね」という言葉に震える。「『助けて』って言っていいよ」という赦しと、そんな人生を生きられますようにという願い、そして、助けること・救うことは本質的には他者にはできないという諦念からしか僕らはスタートできないという達観まで込められた、祈りの言葉だと思った。「叫んで喉が切れる血の味が好きなだけ」って歌詞がいつもより切実に聴こえた。

「君に届くな」は大森さんの楽曲のなかでも、一二を争うくらいに好きな曲で、去年の生誕祭では「流星ヘブン」と「死神」に挟まれての演奏だったが今年も聞けて嬉しかった。今年は「きもいかわ」と「アナログシンコペーション」を繋ぐストーリーの要になっていた。「きもいかわ」で“僕は僕を守るもの”とつぶやいた孤高の存在は、「君に届くな」で“全世界にぶち撒けたい私のすべてを 君に届けたくないほど 君が好き”といって愛する他者との繋がり方にもがき、その果てでかすかに「アナログシンコペーション」する、その物語の美しさ。“こんな愛を捨ててしまおうか 使い方次第でひとつの世界を終わらせてしまう 形ない核兵器”という歌詞の意味、ようやく分った気がする。

 

大森さん、曲を作っても作っても、一曲ならこれだけの質量込められるんだなって驚くほど曲が生まれる、と言っていた。まさに“愛は生まれすぎる 歌ってもまだ”のフィーバータイムを永遠に続けられる人。楽曲提供するとき、それを歌う人を愛さないと曲なんか描けないと大森さんは言うけれど、「形ない核兵器」な愛の使い方を、こんなにも真摯に考え続けて行動し続けている人を僕は他に知らない。愛は生まれてしまうからこそ、きちんと扱わなくちゃいけない。生まれた愛を暴走させず制御してエネルギーに変える努力を怠っている僕らは、もうちょっと大森さんを見習って生きるべきだ。愛を正しく使いたい。

 

本編ラストの「Tokyo Black Hole」、サビの歌い方が今までと違っていて、東京の暗渠を蠢くようなメロディラインにドキドキした。あとさっき手と腕の動きのところで言い忘れたのだけれど、「弱い正義で今宵射精」と歌うときの右手首のしなやかな気だるさにもドキドキしました。

 

アンコールは「ミッドナイト清純異性交遊」と「絶対彼女」。5年前にはじめて聴いたアルバムの冒頭2曲を聴きながら思っていたのは、今当たり前のように楽しんでいる大森靖子の歌とダンスが、5年前からはとても想像がつかない境地のパフォーマンスだということ。あるときまでは“泣きのあと一曲”の「さようなら」を求めていたけれど、今はそんなのが蛇足になってしまうほどに、大森靖子の音楽が完成されていて、唯一無二の高みにたどり着いている。歌い方だってこの5年でもだいぶ変化しているし、アルバムも毎回全然違ったアプローチをしてくるから凡庸な僕は受止めるのに毎度時間がかかってしまう。それでも大森靖子の音楽がずっと僕を捉えて離さないのはその魂が変わらないからで、だから僕はやっぱりずっと、命尽きるまで大森靖子の作る音楽と、彼女自身が好きだ。

 

今年は「絶対彼女」のときにサビのフリを小さくだけれど恥ずかしがらずにできたことが嬉しかったです。妻もいっしょに行ったから億劫がらずに物販もたんまり買えた。

http://massarassa.hatenablog.com/entry/2018/09/24/032207

発表されたクリスマスイブのホールライブ、大森さん自身はもちろんファンも待ちわびていたストリングス構成で心底楽しみ。絶対むせび泣く。正装して行くために痩せよう。

というかその前に47都道府県ツアーのファイナルの方が待ち遠しいのだった。生誕祭のシンガイアズの仕上がり過去最高だったので、その集大成はとんでもないことになるだろうな。すごいな、死ぬ瞬間まで衰えないんだろうな。大森さん誕生日おめでとうございました!

この世界線を選んでよかった

この人生に決断なんてものがあったろうか、と少し考えてしまったけれど、僕はたしかに決断してた、娘の出産について、だ。
僕は今、あの決断の先を生きているんだった。


妊娠発覚当時、妻は40歳になったばかりで高齢妊娠だったし、僕と出会うよりずっと前に経験した手術によって妊娠しにくい体質になったと聞いていた。
だから、妊娠を知ったときは驚いた。“いつか”も“そのうち”も考慮していなかった僕らにとって、その妊娠は青天の霹靂というほかなかった。


検査薬を使って妊娠を知った妻(当時婚約者)が僕にそれを告げるとき、どんな顔をしたか、僕はほとんど覚えてない。
彼女が妊娠検査薬を使ったのはライブハウスだった。一緒に行った大森靖子の生誕祭の日、彼女はひとり下北沢GARDENのトイレで妊娠を知り、僕に告げることなくそのライブを過ごした。妊娠してるかも、と思いながら、でもその事実を誰にも告げぬままライブを見る心境は想像もつかない。

楽しかったね、と言いながら帰ってきたワンルーム、僕の部屋にちょこなんと立ち、妊娠を告げる彼女の姿はぼんやりとしている。
その一方で、妻が「妊娠してるかも」と告白した刹那の自分の脳みそのフル回転の感触だけは鮮明だ。

「あれ? 僕らの間に子供はできないものだとばかり…」
「でも、これは“喜ばしいこと”なのだよな」
「俺は今嬉しいんだろうか」
「嫌な気はしない、実感はもちろんない」
「仮に嫌な気がしても、“産まない”という選択はあり得ないような気がする」
「でも、俺はまだ仕事もろくにしてないよ?」
「嬉しいけど困った、って感じなのかな、俺は……」
「自分のこともままならないのに、子供かあ」

そんな情けない言葉ばかりいくつも胸に渦巻いた。ノーモーションで妻を抱きしめたりできればよかった、彼女の頭を撫でて涙を流しながら「嬉しい、楽しみだね」くらい言えたらかっこよかった。現実は、ダサい。


当時僕はまともに働いてなかった。2014年9月、就職先もないまま大学を卒業して以来、バイトもせず、沖縄に住む親から最低限の仕送りを毎月もらい、東京に居座っていた。今にして思えば当時の僕は抑うつ状態で、“社会的ひきこもり”だった。幸いお金の心配はないけれど、自分の窮状をあけすけに相談する相手がいなかった。故郷には家族もいたし、友達も恋人(元カノ)もいたけれど、彼らに自分の情けない現状を打ち明けられなかった。助けてくれようとする人もいたけれど、ありのままの自分を見せるのは恥ずかしかった。

そんな孤立無援状態は、ブログを書きはじめることで打開された。八方塞がりの僕は誰かにほんとうの僕を知ってほしい一心で、自分のありのままをインターネットにしたためた。あのワンルームをぶち抜いて脱出したかったから、僕は世界に言葉を吐き出した。

その言葉を見つけてくれたのが、後に妻となる女性だった。彼女は僕のこと(文章)をおもしろがり、心配してくれた。ネットでのやり取りを経て、インターネットに浮遊していた僕以外の複数人も交えてオフラインで遊ぶようになり、やがて恋仲となった。彼女は、ニートの僕を好いてくれたのだった。なにも持たない僕をとことん知ったうえで好いて、結婚しようと言ってくれていた。


彼女は社会を知らない僕をバカにすることもなく、たくさんのことを教えてくれた。彼女といるときの僕はとても素晴らしく素直で(素直がゆえに傷つけることも多々あったけれど)、まるで青春時代を取り戻したかのように楽しかった。すべてをさらけ出し合い、お互いを励まし合い、遊びまくり飲みまくり話しまくった。彼女と出会ってからの1年半は、それまで生きてきた26年間よりずっと濃密で、その濃度にあてられた僕は人が変わった。前を向けるようになった、少しだけれど、自信も取り戻した。
この女性と一緒に生きていけば、ずっとこんな風に楽しく・向上しながら暮らせる、と僕は信じるようになった。だから結婚は必然だった。

 

しかし、子供ができるとなれば話は変わる。妊娠を知る前の僕は結婚しても妻に甘えようと思っていた。妻に養ってもらいながら、自分の小遣いだけ彼女が紹介してくれたフリーライターの仕事で稼ぎ、ゆっくり自分の行く末を見つめよう、という甘ったるい心構えでいた。彼女との結婚は、青春の延長だった。だけど、子供を持つということは、青春からの離陸を意味する。


妻が妊娠を告げた瞬間、僕は迷った。子供を持てば、甘い青春は終わってしまう。というかそれ以前に高齢出産はあらゆるリスクを伴う。胎児がなんらかのトラブルに見舞われるかもしれないし、彼女が死んでしまう可能性だってある。だから、“産まない”という決断も十分にありえた。お腹の中にいるらしい命よりも、僕とかけがえのない時間を過ごした妻のほうが圧倒的に大切だから。


“産む(心づもりでいく)”と“産まない”の反復横跳びを脳内で繰り広げながら、2ヶ月前の妻の言葉が蘇ってきた。

ある夜、僕の部屋のシングルベッドに横たわった彼女は、「あなたとの子供を産めないの悲しいかも」と突然囁き、そして泣いた。子供は持たず、ふたりで生きるという合意が取れてると思っていた僕はうろたえた。「別に子供いなくてもふたりで楽しいよ。もし子供欲しくなったら養子とか考えよう」と笑ってみた。けれど妻は“僕の子供”が欲しいという。
「こんな気持になったのにはじめてなんだけど、あなたと血の繋がった子を産んであげたかったなって思うの、ごめんね」と泣いていた。その“ごめんね”が「産んであげられなくてごめんね」なのか、それとも「こんなこと思ってごめんね」なのか僕はわからなかったけれど、彼女の感情に打ちのめされた。彼女の愛の材質や形状は把握できなかったけれど、とてつもなく大きいということだけが分かった。この愛が柔らかいのか硬いのか、滑らかなのか鋭いのかはわからない。けれども今にして思えば、僕の人生を決定的に変えた愛だった。

そんなことを思い出した僕の脳内反復横跳びは終わっていた。少し間を置いて僕は「すごいじゃん!」と言った、ように記憶する。その後「産もうよ!  あ、でも君はどうしたい?」と言葉を継いだ、はず。

 

高校時代の僕を救ってくれた吉田拓郎の曲「青春の詩」は、どんな生き方をも“青春”だと肯定していた。

さて青春とは いったい何んだろう
その答えは人それぞれで ちがうだろう

どんな形であれ、懸命に生きればその時間は“青春”なんじゃなかろうか。僕は妻と出会ってはじめて、“懸命”であることの美しさと醜さ、かけがえのなさを知ったのだ、それを教えてくれた人間といっしょに新たな命を育てるのは青春かもしれない……と、当時の僕が思ったかどうかは定かでなく、でも今そう思えてるのは事実で、少なくとも、あのとき「すごいじゃん!」と言えなかったら、この未来はなかった。


決断の瞬間なんて、凡庸に生きるほとんどの人にとっては意図的に招きいれることは叶わないもので、否応無しに突如として訪れる危機だ。「決断するための判断材料は多いに越したことない」と教えられた僕たちは、いつ訪れるともわからない決断に備え、必死に学び働き遊ぶ。
妻と出会うまで怠惰に生きた僕は、学びも働きも遊びも知らず、すべてを彼女に教えてもらった。だから、決断の行方は必然だったのかもしれない。


あれからまだ2年も経ってないわけだけれど、実際に娘が無事に生まれ、あっというまに1歳を超え、保育園に通い出し、毎日目に見えて成長する。
フリーライターになった僕はといえば、仕事の質にはむらがあるし、かといって大量生産もできず、売れっ子にはほど遠い。娘と追いかけっこで成長したかったけれど、彼女の成長にはとても追いつけない。
けれども、僕を信頼してくれる仕事相手はできたし、都内のマンションの家賃を妻と折半できる程度には稼げるようになった。

正直、甘ったるい気持は未だにあって、“なんとかなるでしょ”の精神は生来のものだから未だ殺しきれない。でもまあその心持でも、娘が1歳になるまでは家族3人&猫1匹で生きてこられたのだった。

決断の良し悪しは、これからの僕の生き方が決める、今はそう書くしかないのだけれど、たしかに現在の僕は、「この世界線を選んで良かった」と心底から思っている。
この世界線で良かったと思い続けるために、家族とともに懸命に“青春”を生きていく。