この世界線を選んでよかった
この人生に決断なんてものがあったろうか、と少し考えてしまったけれど、僕はたしかに決断してた、娘の出産について、だ。
僕は今、あの決断の先を生きているんだった。
妊娠発覚当時、妻は40歳になったばかりで高齢妊娠だったし、僕と出会うよりずっと前に経験した手術によって妊娠しにくい体質になったと聞いていた。
だから、妊娠を知ったときは驚いた。“いつか”も“そのうち”も考慮していなかった僕らにとって、その妊娠は青天の霹靂というほかなかった。
検査薬を使って妊娠を知った妻(当時婚約者)が僕にそれを告げるとき、どんな顔をしたか、僕はほとんど覚えてない。
彼女が妊娠検査薬を使ったのはライブハウスだった。一緒に行った大森靖子の生誕祭の日、彼女はひとり下北沢GARDENのトイレで妊娠を知り、僕に告げることなくそのライブを過ごした。妊娠してるかも、と思いながら、でもその事実を誰にも告げぬままライブを見る心境は想像もつかない。
楽しかったね、と言いながら帰ってきたワンルーム、僕の部屋にちょこなんと立ち、妊娠を告げる彼女の姿はぼんやりとしている。
その一方で、妻が「妊娠してるかも」と告白した刹那の自分の脳みそのフル回転の感触だけは鮮明だ。
「あれ? 僕らの間に子供はできないものだとばかり…」
「でも、これは“喜ばしいこと”なのだよな」
「俺は今嬉しいんだろうか」
「嫌な気はしない、実感はもちろんない」
「仮に嫌な気がしても、“産まない”という選択はあり得ないような気がする」
「でも、俺はまだ仕事もろくにしてないよ?」
「嬉しいけど困った、って感じなのかな、俺は……」
「自分のこともままならないのに、子供かあ」
そんな情けない言葉ばかりいくつも胸に渦巻いた。ノーモーションで妻を抱きしめたりできればよかった、彼女の頭を撫でて涙を流しながら「嬉しい、楽しみだね」くらい言えたらかっこよかった。現実は、ダサい。
当時僕はまともに働いてなかった。2014年9月、就職先もないまま大学を卒業して以来、バイトもせず、沖縄に住む親から最低限の仕送りを毎月もらい、東京に居座っていた。今にして思えば当時の僕は抑うつ状態で、“社会的ひきこもり”だった。幸いお金の心配はないけれど、自分の窮状をあけすけに相談する相手がいなかった。故郷には家族もいたし、友達も恋人(元カノ)もいたけれど、彼らに自分の情けない現状を打ち明けられなかった。助けてくれようとする人もいたけれど、ありのままの自分を見せるのは恥ずかしかった。
そんな孤立無援状態は、ブログを書きはじめることで打開された。八方塞がりの僕は誰かにほんとうの僕を知ってほしい一心で、自分のありのままをインターネットにしたためた。あのワンルームをぶち抜いて脱出したかったから、僕は世界に言葉を吐き出した。
その言葉を見つけてくれたのが、後に妻となる女性だった。彼女は僕のこと(文章)をおもしろがり、心配してくれた。ネットでのやり取りを経て、インターネットに浮遊していた僕以外の複数人も交えてオフラインで遊ぶようになり、やがて恋仲となった。彼女は、ニートの僕を好いてくれたのだった。なにも持たない僕をとことん知ったうえで好いて、結婚しようと言ってくれていた。
彼女は社会を知らない僕をバカにすることもなく、たくさんのことを教えてくれた。彼女といるときの僕はとても素晴らしく素直で(素直がゆえに傷つけることも多々あったけれど)、まるで青春時代を取り戻したかのように楽しかった。すべてをさらけ出し合い、お互いを励まし合い、遊びまくり飲みまくり話しまくった。彼女と出会ってからの1年半は、それまで生きてきた26年間よりずっと濃密で、その濃度にあてられた僕は人が変わった。前を向けるようになった、少しだけれど、自信も取り戻した。
この女性と一緒に生きていけば、ずっとこんな風に楽しく・向上しながら暮らせる、と僕は信じるようになった。だから結婚は必然だった。
しかし、子供ができるとなれば話は変わる。妊娠を知る前の僕は結婚しても妻に甘えようと思っていた。妻に養ってもらいながら、自分の小遣いだけ彼女が紹介してくれたフリーライターの仕事で稼ぎ、ゆっくり自分の行く末を見つめよう、という甘ったるい心構えでいた。彼女との結婚は、青春の延長だった。だけど、子供を持つということは、青春からの離陸を意味する。
妻が妊娠を告げた瞬間、僕は迷った。子供を持てば、甘い青春は終わってしまう。というかそれ以前に高齢出産はあらゆるリスクを伴う。胎児がなんらかのトラブルに見舞われるかもしれないし、彼女が死んでしまう可能性だってある。だから、“産まない”という決断も十分にありえた。お腹の中にいるらしい命よりも、僕とかけがえのない時間を過ごした妻のほうが圧倒的に大切だから。
“産む(心づもりでいく)”と“産まない”の反復横跳びを脳内で繰り広げながら、2ヶ月前の妻の言葉が蘇ってきた。
ある夜、僕の部屋のシングルベッドに横たわった彼女は、「あなたとの子供を産めないの悲しいかも」と突然囁き、そして泣いた。子供は持たず、ふたりで生きるという合意が取れてると思っていた僕はうろたえた。「別に子供いなくてもふたりで楽しいよ。もし子供欲しくなったら養子とか考えよう」と笑ってみた。けれど妻は“僕の子供”が欲しいという。
「こんな気持になったのにはじめてなんだけど、あなたと血の繋がった子を産んであげたかったなって思うの、ごめんね」と泣いていた。その“ごめんね”が「産んであげられなくてごめんね」なのか、それとも「こんなこと思ってごめんね」なのか僕はわからなかったけれど、彼女の感情に打ちのめされた。彼女の愛の材質や形状は把握できなかったけれど、とてつもなく大きいということだけが分かった。この愛が柔らかいのか硬いのか、滑らかなのか鋭いのかはわからない。けれども今にして思えば、僕の人生を決定的に変えた愛だった。
そんなことを思い出した僕の脳内反復横跳びは終わっていた。少し間を置いて僕は「すごいじゃん!」と言った、ように記憶する。その後「産もうよ! あ、でも君はどうしたい?」と言葉を継いだ、はず。
高校時代の僕を救ってくれた吉田拓郎の曲「青春の詩」は、どんな生き方をも“青春”だと肯定していた。
さて青春とは いったい何んだろう
その答えは人それぞれで ちがうだろう
どんな形であれ、懸命に生きればその時間は“青春”なんじゃなかろうか。僕は妻と出会ってはじめて、“懸命”であることの美しさと醜さ、かけがえのなさを知ったのだ、それを教えてくれた人間といっしょに新たな命を育てるのは青春かもしれない……と、当時の僕が思ったかどうかは定かでなく、でも今そう思えてるのは事実で、少なくとも、あのとき「すごいじゃん!」と言えなかったら、この未来はなかった。
決断の瞬間なんて、凡庸に生きるほとんどの人にとっては意図的に招きいれることは叶わないもので、否応無しに突如として訪れる危機だ。「決断するための判断材料は多いに越したことない」と教えられた僕たちは、いつ訪れるともわからない決断に備え、必死に学び働き遊ぶ。
妻と出会うまで怠惰に生きた僕は、学びも働きも遊びも知らず、すべてを彼女に教えてもらった。だから、決断の行方は必然だったのかもしれない。
あれからまだ2年も経ってないわけだけれど、実際に娘が無事に生まれ、あっというまに1歳を超え、保育園に通い出し、毎日目に見えて成長する。
フリーライターになった僕はといえば、仕事の質にはむらがあるし、かといって大量生産もできず、売れっ子にはほど遠い。娘と追いかけっこで成長したかったけれど、彼女の成長にはとても追いつけない。
けれども、僕を信頼してくれる仕事相手はできたし、都内のマンションの家賃を妻と折半できる程度には稼げるようになった。
正直、甘ったるい気持は未だにあって、“なんとかなるでしょ”の精神は生来のものだから未だ殺しきれない。でもまあその心持でも、娘が1歳になるまでは家族3人&猫1匹で生きてこられたのだった。
決断の良し悪しは、これからの僕の生き方が決める、今はそう書くしかないのだけれど、たしかに現在の僕は、「この世界線を選んで良かった」と心底から思っている。
この世界線で良かったと思い続けるために、家族とともに懸命に“青春”を生きていく。