ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

先週20190401-0407

久しぶりに春がはじまりの季節になった。10ヶ月の娘が保育園に通いはじめたから。昨秋、保育園の見学に足を運んだり、書類提出に奔走したりと忙しかったぶん、第一希望への入園が決まったときはかなり嬉しかった。9年前、センター入試の自己採点で思わぬ高得点を知ったときの歓喜を思い出すほど。就活で内定をひとつももらえなかった俺にとって今回の入園決定は、大学合格以来9年ぶりの「突破」だった。

はじめての登園日は家族全員で。「園だより」に載せる用の家族写真を撮られた。髪の毛ボサボサだったので出来上がりが心配。

妻はその日はじめて保育園に足を踏み入れたこともあって少し緊張してるように見えた。先生の矢継ぎ早の指示に我々はうろたえる。登園時は、オムツや着替えの補充、体温測定、オムツ替えなどやることがたくさんあるのだ。初日だからそのいちいちを指導してくれる。

妻は少し怯えたような目で俺に「汚れ物入れはどうすればいいの」と聞いてくる、その頼られてる感じがよかった。いつもは頼もしい妻の弱々しい挙動が、俺の心をやわらかくする。

娘の洋服や食事用エプロン、名前スタンプ、登園用バッグなどもろもろの準備はすべて妻がやってくれていたこと、ちゃんと書かなければフェアじゃないな。離乳食を作ってくれるのも妻だ。ついこないだまで「俺は専業主夫だ」とか言っていたけれど、半年間の無能ぶりを嘆くばかりだ。

無事、娘は入園したので、これからは共働き。短い主夫生活は、自分の生活力の無さを痛感して終わった。

 

娘はぐずることもなく、先生の腕の中にすっとおさまった。

僕らは駅近くにある喫茶店で朝食を取ることにした。娘のいない朝は、彼女が生まれてからはじめてのこと。なんだか照れてしまった。サンドウィッチセットを頼んだら、ヨーグルトが付いてきた。俺はずっと苦手だったヨーグルトをこの日克服した。

慣らし保育だったので11時前には娘を迎えに行く。妻はこの日休みだったので、家族そろって「令和」発表の瞬間を目撃した。思いのほかいい感じのネーミングか逆に薄気味悪いなどと思ってしまった。「令和」への感想はともかく、来るべき時代を名付けておく行為自体は好きだ。西暦と異なる時間軸を持つことで保てる精神がある。たしかに西暦に統一したほうが効率的なのかもしれない。でも、目先の効率性を取ることよりも、来る数十年を名付けることに、ロマンを感じる。

 

先週は久しぶりに原稿の締切に追われた。俺はいつだって仕事から逃げ出したいと思っているし、締切前の苦痛を味わうたび苛立ち、悲しみ、途方にくれてる。でも仕事が終わってしまえば、そのときの苦痛はまったく忘れてしまい、また仕事を引き受ける。毎度毎度そんなふうにギリギリで乗り越えている。

仕事相手に恵まれていることだけが救いだ。

仕事に追われているあいだ、妻が娘の世話してくれて、ずいぶん助けられた。作業にかかる時間の目算が致命的なほどに下手くそな俺は「あと2時間で終わるはず!」と何度も言った。

計画性のなさや忘れ物の多さ、気分のムラに生活を支配されること、人の気持ちがわからないことなどなど、仕事を始めるようになってから自分の性格・気質の欠陥が目につきはじめ、少し悩んでいた。なんで俺はこんなにグズなんだと思い、発達障害などを疑うも、俺よりも困っている人のエピソードに触れるたび「甘えちゃいかんな」と思った。

しかし、ツイッターで見かけた『「大人のADHD」のための段取り力』という本を何気なく読んでみたら、すべてのページに「俺のことが書いてある…」と唸ってしまった。

「大人のADHD」のための段取り力 (健康ライブラリー)

「大人のADHD」のための段取り力 (健康ライブラリー)

 

 

笑えるほどに俺のことだった。「不注意」「多動性」「衝動性」を特性とするADHD、たしかに子供のころから親に「ほんとにあんたは注意散漫だね!」と叱られてたっけ、と思い出す。子供のころは、まあまあ勉強できるほうだったので、多少注意散漫でもじゅうぶんリカバリーできた。しかし、大人になるとそうはいかない。マルチタスク、長期計画、人間付き合いなどそのすべてで俺は挫けてきた。これはADHD傾向ゆえだったのではないか、ようやく気づいた。気づけばラクなもんだ、割り切って対策すればいいのだから。

 

俺の成長が遅々として進まない一方、娘は著しく人間味をおびてきた。手を振って「バイバイ」すると、笑いながら手を振り返してくれる。

紙パックのりんごジュースをストローで飲めるようになった。飲みきっても手放さないから「もうないよ」と諭し紙パックを取りあげると、大声をあげて抗議する。

野菜せんべいを食べる娘は、味わうのに必死すぎて逆に目が死んでるように見える。ちょっと前までは、握りこぶしでせんべいを掴むから、こぶしの中にある分を上手に食べれなかった娘。今では手を開くことを覚えたし、指先を使うのも上手くなって、せんべい1枚ひとりで平らげるようになった。

一緒に湯船に浸かるとき、浴槽になみなみとお湯が入ってると怖がる。ちょっと前、娘をおもしろがらせようとお湯を勢いよくかき混ぜたとき、水音に怯えた彼女は号泣した。あれ以来なみなみの水に浸かると、瞬間的に顔をひきつらせる。優しくガーゼで頰を拭いてやると気持ちよさそうに目を細めて、湯船に慣れてくれる。

かまり立ちが上手になったが、降り方がわからず戸惑っているところがかわいい。ローテーブルについた両手の片方をフローリングに向けるのだけれど届かない、バランスを崩しかけて手を戻す。そんなことを何回も続ける。危なっかしく着地することもあれば、グズるので抱っこして床に降ろしてやることもある。

できることが増え、それゆえにできないことの多さにも気づきいらだつ娘は、成長だけに全エネルギーを投下している。それをかっこいいと思う。

成長著しい娘は今週いよいよ18時まで保育園にいることになる。最初の起立、歩行、発語そのすべてを見逃すことになるかもしれないのが少し残念だけれど、残念がるのはなんとなく親のエゴっぽくもあるから、最初なんてどうでもいいと割り切ることにしたい。成長は瞬間ではなく継続だろうから、その時間経過を見つめていたい。受験合格から9年、成長とは無縁だった俺にとっても、勉強になることが多いだろう。