気づきたい
むかしは妻と散歩しているときに、おもしろいとこに気がつくね、と言われたものだったけど、いまの俺は何にも気づいてない。仕事のことで頭がいっぱいになるか、自分に至らなさにイライラするか、娘かわいいなあと思っているか、妻と結婚してよかったなあとぼんやりするか、のどれか。
そもそも散歩をしなくなった、寄り道はするけど。目的地に向かって歩き、家に向かって歩く。ただただ歩くってことがなくなった。
あかんぼうがもう少し大きくなれば、散歩をする機会も増えるだろうけど、そのときの俺はあかんぼうに意識が向かっているはずなので、町や自然に気づくことはできないんじゃないか。そして、あかんぼうが幼児になったときには、彼女の気づきに圧倒されて、俺は自分がかつて気づける人だったことも忘れてしまうんじゃないか。そんな焦りがある。
今日は娘を妻に見てもらっているあいだに、1ヶ月半前に借りた本を図書館に返しにいった。4冊借りたけれども、どれも読みきれなかった。予約者がいなかったことだけが幸いだった(予約者がいないから急いで返しに行かなかったというのもある。早く返しに行けばいいのに、図書館のHPで利用者のページを開き、予約がないことを確認して安心していた)。
本を返したあと、書棚のあいだをうろうろした。いろんな本がある。いろんな本を手に取る。話題になってる本、昔から気になっていた作家の本、料理の本、写真集と小脇に挟んで、そろそろ帰ろうとした瞬間、俺はいつまでこんなことを続けているんだろうかと思う。
本のあつまっている場所は、可能性に満ちている。この本を読み終えたとき、俺は決定的に変わっているんじゃないか、という予感が俺を本のある場所にいざない、縛りつける。でも、本を借りてきても、本を買ってきても、俺はその可能性を、本棚や押し入れの奥に忘れてしまう。そんなことをずっと繰り返してきた。ずっと繰り返しているなとずっと前から気づいている。
もう可能性はいらないと思う。決定したい。諦めたいとも、受けいれたいとも違う。進むべき道を知りたい。
図書館からの帰り道、川を渡る。橋のうえに佇んでみた。ぼうっとしてみようと思った。欄干に腕をのせてもたれかかり、川上を望む。夕方にこんなところにぼんやりしていたら、通行人に不審がられるかなと思ったが、隣の橋のうえにも女性がふたり立ち話をしていたし、川沿いでは3人のおじさんが釣り糸を垂らしている。オレンジのタオルをはちまきにしたおじさん、ピンクのタオルをねじりはちまきにしたおじさん、キャップをかぶったおじさん。みんなぼんやりと川面を眺めている。みんなおじいさんに近いおじさん。こんな川でいったいなにを釣ろうというのだろうか。もしかしたら、ぼんやりとする口実に、釣りをしているのかもしれない。川を挟んで向かいにある駐輪場の係のじいさんもぼんやりしていた。
道端でぼんやりと時間を過ごしている人は意外と多かった。
この橋から海までは1キロもない。8月、この先にあるレストランに家族3人で行った。妻の誕生日だった。プレゼントしたネックレスを妻につけてもらって出かけた。あかんぼうが生まれるとネックレスやピアスの類は抱っこの際に邪魔になるから身につけなくなる、と聞いたことがあったから、あえてプレゼントした。家族で出かけるときは、できるかぎり俺が娘を抱っこするという意思表示のつもり。よく似合っていると思った。
妻の妹から、譲りうけたベビーカーに娘を乗せて、自宅からレストランまで海沿いをひたすらに歩いた。途中で立ち止まり、海を背景に、ベビーカーに座る娘を写真に撮ったりした。まだ青い夕方の空に、とんびが浮かんでいた。海風を正面から受け、同じ場所に静止していた。娘の表情はけわしくてかわいらしかった。
ベビーカーを使った外出はその日がまだ2回目で、レストランにベビーカーで入るのははじめてのことだった。妻はソファ席に座ってもらい、俺はイスに腰掛け、かたわらにベビーカーを置いた。この日はたらふく飲んで食べようと以前から決めてあって、お昼も抜いていたくらいなので、前菜だけで4品くらい頼んでしまった。カクテルシュリンプを口に放り、アヒージョを味わい、マッシュルームグラタンが美味で、バッファローウイングチキンに満足し、ビールで流しこんだ。その間、おとなしくしていた娘もやがて泣き出してしまい、抱きあげてなだめつつ、食べて飲んだ。楽しかった。
その日、俺は前菜が終わるくらいのころまで、涙が出そうだった。「なんだか、とっても家族をしている」と実感し、感動してしまったのだ。おそらく、ベビーカーが与えてくれた余裕が、レストランまでの道のりを散歩にしてくれたというのが理由のひとつ。抱っこひもでこの距離を歩くのはしんどいから、気持ちにゆとりを持てなかっただろう。また、レストラン側が、あかんぼう連れだから気を使って、人がまだ少ないエリアのテーブルに案内してくれたのもよかった。周りに別のお客がいたら、いつ泣き出すかわからないあかんぼうを傍らにおいてゆったり食事するなんてことはできなかったはず。ありがたかった。
でも、感動してしまった最大の理由は家族そろってはじめてのレストランだったからだ。自分が幼少のころ父と母に連れてきてもらったように、俺はいま、自分で選んだ家族と一緒にレストランにいる。そのことがえらく感動的だった。いつもいっしょにいる家族と、特別な日に、特別な場所で食事をする。子供のころは《それだけ》のことだったのに、いまはそれだけのことのために、どれだけの日常を積み重ねてきたかを知っているから、涙も出そうになる。なんだか親ってのは厄介だ。
食事の最後に記念撮影のサービスがあったので、撮ってもらった。娘はおびただしく泣いていた。昔は、記念写真の瞬間に泣いている他人の子供を見るたびに「泣いている写真もまた良い思い出になるんだろうな」と考えていたが、やっぱり、自分の子供には笑っていてほしいと思ってしまった。これが親か。やっぱり厄介だな、親は。
俺は橋の上でぼんやりしながら、親である自分の厄介さに気づいていた。子供にとってはたった《それだけ》のことでも、俺にとっては涙の出ること。子供にはずっと笑っていてほしい。そういう思いを持っているけれども、子供にそれだけのことをしてあげている、とか、笑ってもらうためにこれだけのことをしてきた、とか考えないようにしたいな、と思う。
そういえば、俺の父はぜんぜん押しつけがましくなかった。「俺はお前にこんなに良くしてやったぞ」という素振りを見せたことがない。立派だと思う。俺が2年間ニートをやっていたときも、小言のひとつも言わずに、生活費をぜんぶ仕送りしてくれていた。すごいことだ、ほんとうに。実感していく。凡庸だ。でも、いままでの俺は気づいてなかった。
いまの俺はすごく生きている。でも、この生きている時間のさなかにあって、振り返る時間をもたないと、すべては流れ去っていく。だからこうして橋の上に佇んで、バス停のベンチに腰かけて、公園の芝に寝そべって、ぼうっとしたい。いろんなことに気づきたい。せっかく生きているのだから。いろんなことに気づきたい。穏やかな時間をたくさん持とう、そう決意しながら橋を渡り終えると、赤い電車が来ることを踏切が伝えたので、小走りに線路を渡った。