ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

われわれは妊娠している

われわれは妊娠している。

 

妻のお腹のなかに胎児がいる。去年9月にわかった。入籍は11月。そう書くと「授かり婚なの?」と思われるかもしれないけど、入籍は11月と以前より決めていたので、妊娠がわかったから結婚を決めたわけではないと最初に言っておきます。べつに「授かり婚」についてとやかく言いたいわけでなく、「授かり婚」についてとやかく思う人は一定数いるっぽいので、断っておきました。

 

できちゃった結婚なの?」と聞かれたことが何度かあって、いちいち「違うよ」と説明するのがめんどくさかった。「違うよ」と言うとき、「授かり婚」だと思われなくない、と心のはしっこで考えている自分を自覚した。ぼくには授かり婚を非難する気持ちがあるのだろうか……そういうわけではないだろう。

ぼくは「授かり婚」を否定しているわけじゃなくって、授からなくたってぼくらは結婚していたと言いたいだけだ。授かりはぼくらの結婚に何のきっかけも与えていないことを伝えたいだけ。でも、それを会話のなかで説明するのはだるい。

たとえば長く付き合ったカップルが妊娠をきっかけに結婚を決意するのはとてもいいことだとおもうし、それくらいのことがないと踏ん切りがつかないのが結婚とも言える。ぼくらの場合たまたま、妊娠に匹敵する「踏ん切り」が妊娠よりも前にあっただけだ。

 

ちなみにぼく個人としての「授かり婚」と「できちゃった結婚」の使い分けは、文章なら「授かり」、口頭なら「できちゃった」くらいのかんじアバウトな感じ。

「できちゃった」は「ちゃった」の部分が口に気持ちよくって思わず言ってしまう。でも、いまの趨勢としては「授かり」を使ったほうが無難だろう。個人的には「授かり」という言葉にはむずがゆくなる。子供を天から授かったという感覚がゼロだからかもしれない。

 

「妻が妊娠していて……」と何度も口にしてきた。そのたびにかすかな違和感があった。違和感の正体は「妻が妊娠している」には当事者意識が欠けているからだと、ふと気づいた。

「妊娠した」のが妻ということは、ぼくは「妊娠させた」のか。なんか違うなとおもう。妊娠はふたりのものだ。だから「妻が妊娠している」というより「ぼくらは妊娠している」とほんとうは言いたい。でもこれもまた、いちいち説明するのもめんどくさいし、なんだかセンチメンタルな感じもする。きれいごとっぽいので、わざわざ言葉にしないほうがよかったのかもしれない。

 

「われわれが妊娠」と言ったって、妻の体のしんどさをぼくは知ることができない。

おれはフリーのライター(フリーライターって言うのは、まだためらわられる。「の」が緩衝材になって和らげてくれる)で、残念なことに仕事は未だ少なく、夫婦で過ごす時間はふつうのカップルよりも断然多いから、妊娠中の妻のしんどさに接する機会もおのずと多くなる(妻もフリーランス)。妊娠は大きな負担を体に強いる。そばにいる時間が長いから知ることができた。妊娠はすさまじい。

 

「妊娠は病気じゃない」という定型句があるけど、とても厄介な言葉だとおもう。産婦人科医も「妊娠は病気じゃないから……」と言う。

たしかに「病気」ではない。でも、普段とは違う異常事態ではあるわけで、ふつうではない。ふつうとは違うからいつもと同じように生活できるわけはない。病院代もかかる、なのに保険は適用されない、病気じゃないから。欺瞞だとおもう。

 

 

男が妊娠について語るのはやっぱり難しい。ほんとうには理解できないから。「われわれは妊娠している」と書いたけれども、そう思いたいだけなのかもしれない。妻が読んだら「それは違うよ」と呆れるかもしれない。

 

男はあまりにも無力だ。子供とへその緒で繋がることはできないし、授乳することもできない。いくら男女平等ったって、体のつくりは同じではない。妊娠、出産、授乳、この3つはいまのところ男には絶対にできない。

村田沙耶香「消滅世界」では男も妊娠できる世界が描かれていて、とてもいいなとおもった。でもいまは、男も妊娠できる世界ではなく、男も女も妊娠しない世界のほうがいいと考えている。おなかの外で胎児が育つようになればいいのに。

そもそも、頭の大きくなりすぎた人間は本来子宮にいる期間よりも、胎児期間が2ヶ月短くなっているらしい。これ以上腹のなかで成長すると大きな頭がつっかえて、経膣分娩ができなくなるから。だったら初めっからおなかの外で育ったほうがいいのではないか。あるいはしかるべき大きさになったら取り出して、子宮を模した透明ケースのなかで育てられるようになればいいんじゃないか。そうすれば、大きくなる我が子を夫婦並んで見ることができるわけで、親としての自覚も芽生えるのではないか。

科学は子宮の外で胎児を育む方向に進んでいるのだろうか?そうであればいい。倫理もそちらに向かえばいいと思う。

そうすれば妊娠はだれのもでもないがゆえに、「われわれのもの」になる。そうなってほしい。女性は妊娠のつらさから解放されるわけだし。男女平等・同権ったって、現状でできることは限られている。これじゃあほんとうの意味での「主夫」なんて実現しっこない。

 

 

……と、いろいろ書いてきたけれども、そもそもぼくはもっと稼がなくてはならないという実際的な問題がある。もっと書いてもっと稼ぎたい。妻が稼げなくなるぶんを補わなくては。そういうやり方でしか現状のぼくは妊娠を共有できないのだし。

 

そういえば妻について話すとき、どの代名詞を使うか未だに定まらない。「妻」「奥さん」「カミさん」あたりで迷ってる。「家内」はあり得なくって、「嫁(さん)」もなんか違う。女房……なんか乳房っぽくてためらわれる。奥さんあたりがいちばん背伸びしてなくて、自然に出てくる。でも「奥」に一瞬のためらいを覚えるんだよね。ぼくより「表」だし。