ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

「ちょいと寂しいね」 小津安二郎『秋日和』(1960年)感想

三輪の七回忌。寺に集まった三輪の妻秋子(原節子)とその娘で未婚のアヤ子(司葉子)は、三輪の友人たち間宮(佐分利信)、田口(中村伸郎)、平山(北竜二)の相手をする。3人は24歳のアヤ子に縁談を持ちかけるが、彼女は笑ってごまかす。母・秋子をひとり残して結婚するのにためらいを感じているらしい。それに気づいた男3人は、先に母親を再婚させて片付けてから、その後でアヤ子を嫁がせればいいと考える。

 

この男3人きりの会話がおもしろい。「三輪は秋子さんみたいな美人をめとったから早死にするんだな、俺は早死にの心配ないよ」みたいな軽口を叩いたり、料理屋の女将を見て「あれの亭主は長生きだろうな」みたいな陰口言って笑うところ。《美人と結婚=早死に》を《不器量と結婚=長生き》に反転させて笑い飛ばす感じが軽妙でたのしい。こういう男の会話はまあまあ下品だし女を不愉快にさせるものだろうが、そういう一面的な捉え方をせずに言葉遊びとして見るべき場面だと思う。

 

アヤ子の会社の同僚で友人の佐々木百合子(岡田茉莉子)がいい役だった。先に結婚して友人が乗る電車を会社の屋上から眺めつつ「わたしたちの友情ってもんが、結婚までの繋ぎだったらとっても寂しいじゃない、つまんないよ。ふん、バカにしてろ」とこぶしをポンと突き出すところのスネ方がかわいい。廊下を歩いてった平山の後ろ姿にシャドーを重ねながらジャブを打つ息子のシーンと重なる。

勝手に秋子の再婚を画策して三輪親子を仲違いさせた男3人の元に押しかけて「どうして静かな家に石放り込むようなことなさるんですか」とまくし立てるところは毅然としていてかっこいいし(ごもっともだし)、その後男3人を騙してへんぴなところにある自分の家の寿司屋に連れてっちゃうところもすごくチャーミング。

なんだかんだでアヤ子が嫁いだ夜、百合子は銀座から帰りに秋子の様子を伺いに来る。そういうところもよい。百合子は「あたし、これからちょいちょい来ていい?」と笑顔でたずねる。このシーンの彼女と秋子は残された者同士の寂しさでつながっている。しかしその後ラストから2番目のショットでのうつむきほほ笑む原節子からは、いずれ百合子も嫁ぎ、わたしは本当にひとりぼっちになるんだろうな、というような諦観が感じられる。

 

ラストショット、いままで何度も映ったアパートの外廊下、 三輪家の前の照明だけ消えている。もうこの家は消灯してしまった。

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この映画には上の画像のような無人のショットが数多く差し込まれている。それらのショットは場面説明だけのものでは決してなく、それ自体が物語のテーマにとって重要だろう。誰もおらず、何の物音もしない部屋や廊下は、すべての無常を感じさせる。この部屋や廊下で生きていた人たちはすでに死んでしまったのではないか、と思うようなショットたち。

 

百合子が「わたしたちの友情ってもんが、結婚までの繋ぎだったらとっても寂しいじゃない」と言いつつ願っているのは、青春が永遠に続くことである。友人の結婚を祝ってみんなで山登りをした、ああいう時間が、青春が、ずっと続いてほしい。しかし結婚という区切りでもって女が家庭に入ってしまい、同時に友情も途切れてしまう現実に対して感じる寂しさ、悲しみ。

とはいえ、永遠の青春を願う百合子も遅かれ早かれ結婚してしまうだろう。

その一方で再婚はしないと固く決意している秋子の部屋の前の灯りは消えてしまう。

 

 

結婚にともなう女たちの寂しさ、悲しさが前面に出ている一方で、間宮、田口、平山の3人は実にあっけらかんとしている。アヤ子の結婚式の後で間宮が「しかしおもしろかったじゃないか、これでもう終しまいかって思うと、ちょいと寂しいね。他に何かないかね」というが、人ん家をかき回して他人の娘の結婚をこしらえておいて「おもしろかった」と感想して終わらせるのが実に無責任で良い。このセリフのちょっと前に百合子を評して「ああいうのもたまにはいいよ、ウェットすぎても困るからな」「でもドライすぎても困る」というやりとりがある。ウェットというのは秋子とアヤ子のことだろう。

ウェットにはならずドライでもなく、おもしろがってお節介して、「ちょいと寂しいね」なんて具合で終いにして、飄々と生きていられたら実に気持ちいいんだろうな、と思う。

 

 いまの時代にあってはなかなか想像できない生き方だけど。