うたかたにあらがう
俺が大学図書館に行くたびに、いつも同じ席に座っているおじいさんを見る。
俺もいつもの自分の席に座る。おじいさんは階段上がってすぐの席に座っているから、自分の定位置に行く際に、俺は彼を必ず見ることになる。俺がこの大学に入学した6年前から、彼はずっとそこにいる。たぶん毎日。おそらく俺の入学するよりはるかに前から。卒業生用のカードで入館しているのだろう。
毎日毎日何をそんなに熱心に勉強しているのだろう。
いまは俺も、彼と同じ卒業生用のカードを使っている。
小綺麗なおじいさんだ。
いつもシワのない白のワイシャツを着て、紺だったり黒だったりベージュだったりのスラックスを履き、図書館から出るときはハットまで被る。冬は、スラックスに合わせたジャケットを羽織っているが、夏は、白いシャツの下のランニングが透けて見える。白髪で、髪の毛はだいぶ少なくなっているけれど、人を不快にするようなものではない。降り積もったばかりの柔らかい雪のような毛髪。
小奇麗だけど、健康的ではない。俺がはじめて見たときはいまよりも血色は良かっただろうか、覚えていない。目の下には隈が目立つ。
そのころは、彼の痰のからんだ咳が、図書館の3階フロアにやたらと響いた。激しい咳は、しばらく止まないこともある。俺の席からは、彼の座る場所は死角になっている。
夏の終わりのある日、読書に飽きて眠っていると、ガシャガシャン、と大きな音がして目覚めた。髪の毛を濡らす寝汗を拭いながら周りを見渡すが、何も起こっていない。確認がてら小便にでも行こうと立ち上がると、耳からイヤフォンが抜けた。小さく音楽を聞いていたことを忘れていた。イヤフォンはそのままにトイレに向かう。フロアが騒がしい。階段付近に数人集まっていて、司書の綺麗なお姉さんが階段を駆け下りていく。机と手前の椅子に隠れてよく見えなかったが、やわらかそうなおじいさんの白髪が机の脚のところに固まって落ちていた。
便器の前に立つ。少し鼓動が早くなっている。おじいさんが倒れたらしい。
小便は勢いよく出た。流れ切る前の小便の上に次の小便が重なり少し泡を立ててすぐ消える。
できるだけ長く小便したかった。
トイレを出ると、司書のお姉さんも戻ってきていて、白衣を着た男がしゃがんでいた。学校の保健師だろう。
おじいさんに意識はあるらしいがしかし、立ち上がるどころか座ることもできず、さっきと同じように白髪を床に落としていた。溶けてしまいそうだった。
喉が乾いていた。何か飲み物を買いに行きたかったけれど、階段を降りるのは勇気がいった。俺はトイレに戻り、蛇口をひねって手に受けた水を口に運んだ。小学生のころ、トイレの水は汚いから飲んじゃいけないんだよ、と同級生にからかわれたことを思い出す。なんでトイレにあるというだけで、その蛇口から出る水が汚いと言われるのかわからなかった。水は水じゃないか、便器をつたって流れてきた水じゃあるまいし、と思ったけれど、べつに言い返さなかったと思う。
あの日から今の今まで、トイレに設置された蛇口から水を飲んだ記憶もない。けっきょく俺は同級生の言葉を信じたのかもしれない。覚えていない。
ふたたびトイレから出ても、おじいさんと彼を取り巻く人々はそのままだった。俺にできることは何もない。おじいさんとは面識もない。俺は自分のいつもの席に戻った。戻るとき、読書してたり、ノートに何かを書き付けてたり、寝てたり、ケータイをいじったりしている連中を目にした。
俺は、席についてイヤフォンを耳に入れ机に突っ伏した。イヤフォンからは何も流さず、騒ぎの方に耳を集中させた。
やがて救急車のサイレンがキャンパスに響き、図書館前に停まった。すぐに救急隊員が来て、大丈夫ですかー?などと声をかけて、その声もやがて消えた。階段のそばに集っていた人々のざわめきもフェードアウトした。
俺は顔を上げてイヤフォンを外し帰り支度をした。
階段を降りるときにおじいさんの定位置に目をやると、そこには何もなかった。彼の荷物は片付けられている。床に白髪が落ちている気配もなかった。ガシャガシャンと聞こえてから40分弱のあいだの出来事。
図書館1階のカウンター内では、さっきの綺麗なお姉さんが、本の貸出手続きをしている。
しばらくして、おじいさんはまた図書館に来るようになった。
昼過ぎに延滞資料を返却して、3階に上がると、いつもの席に座っている彼が目に入った。あとで計算したら、彼が戻ってきたのはガシャガシャンから86日後だった。残暑が終わり、紅く染まった葉たちが落ちてゆく季節。
おじいさんの頭からやわらかそうな白髪が消え、少し頬がこけていた。
俺は相変わらず無職で、図書館のカードを500円払って更新したのはつい1週間前のこと。
おじいさんはあいかわらず分厚い本を繰ってノートに何かを書きつけ痰のからんだ咳をしている。何をそんなに熱心に勉強しているのだろう。