ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

吹流し

自宅アパートのベランダから見える一軒家の屋根より低いバルコニーに、鯉のぼりが立てられてようとしている。まさにいま、黒髪をひとつに束ねた女が、バルコニーの手すりに鯉のぼりを結びつけているところだ。


俺が小学校5年生くらいまで父は、鯉のぼりを屋上に立て、和室に兜飾りを出した。雛人形と入れ替わりだった。
兜飾りは弓矢と刀に挟まれていて、毎年5月、その短いおもちゃの刀によって俺は和室の障子に穴を開けまくった。あんまり怒られなかった。父が障子を張り替えた、たまに手伝った。


髪をひとつに束ねた女が無事風に揺れ始めた鯉のぼりをスマートフォンで撮影している、画面に反射した西日が、俺の目に入る。彼女は終始、俺のアパートに背を向けている。
鯉が風にはためく家の前を、黄色い帽子をかぶった、赤黒だけじゃないカラフルなランドセルを黄色のカバーで隠した男の子女の子が、ひよこのようによちよちふらふら過ぎ去っていく。
鯉のぼりは、鯉よりも五色吹流しのほうが好きだった。いま見える鯉の群れの中に吹流しはいない。

 

雛人形も兜飾りもクリスマスツリーも飾った、お年玉ももらった、豆まきもした。
でも、母の日父の日に何かしてやったことはない。
大人になったら、自分で稼ぎ始めたら、何かプレゼントしてあげようと毎年心のなかで言い訳してた。20代も半ばを過ぎた俺はニートまっさかりだ。


それにしても、東京でひとり暮らしニートをさせてもらえるというのは、なんと贅沢なことなんだろうかと改めて思う。一時期は自立できない自分に嫌気していたけれど、こんな幸福味わえるだけ味わな損だわ、とか思い始めている。
しかし、やがて、鯉のぼりは片付けられ、小学生のランドセルは個性豊かな地肌をさらす。立派な家の庭の緑は、赤や黄に染まり散り、白が舞い積り溶け、やがてまた桜が咲いて散っていく。


感傷が金になればいいのに。
いい風が吹いても、走らなければ、後押ししてもらえない。