ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

じぶんだけの真実を探さざるを得ない人 「『消滅世界』出版記念トークイベント 村田沙耶香×雨宮まみ」の感想

対称的な2人の共通点

1月21日、小説家・村田沙耶香さんの『消滅世界』出版を記念したトークイベントが、ライターの雨宮まみさんを対談相手に迎えて池袋三省堂で開催された。イベントスペース「Reading Together」は壁も床も鉛丹色というか緋色というか、とにかく落ち着いた赤色(色の語彙を増やしたいと思っているので背伸びしてます、すみません)。落ち着いた内装とは相反して、定員に達した会場はお客の熱気で少しばかり暑かった。

定刻通り2人は会場に入られた。先に入ってきた雨宮さんは前面に大きなトラ(?)(2月7日追記:トラではないとご本人からのご指摘を頂きました、ありがとうございます。ちなみになんだったのだろう…。 雨宮まみ on Twitter: "トラじゃ……ないです……(確かに模様がトラに見えてもしょうがない感じではある)。トラ対村田さんって構図だったらおもしろすぎるから、トラの服を着ればよかった!)が金色で描かれた黒のノースリーブのTシャツ(?)を着て、「暑いですねー」と笑う。その一方、続いて入ってきた村田さんはグレーのカーディガンの袖で手のひらを半分ほど隠していた。萌え袖!


身なりは対称的な2人だが、彼女たちのそれぞれの著作を読むと、2人の共通点は誰にでも分かるだろう。「性を超えて、じぶん固有の気持ちよさを追求する」。そんな風に言えるか。「女性としての幸せ」だとかそういうマニュアル的な気持ちよさではなく、じぶんだけの快楽を得ることの奮闘を、村田さんは小説の世界(本人曰く、じぶんの青春時代は村田作品の主人公のように自分の体で知っていく人間だった)で、雨宮さんは、上野千鶴子さんの言葉を借りれば、自分を素材にした当事者研究という形でそれぞれ追求している。

村田沙耶香作品の主人公のような雨宮まみ


ぼくがはじめて読んだ村田さんの小説は「星が吸う水」だった。

だいぶ前に読んだので正確な紹介はできないが、セックスすると股の間から何かが「抜ける」ような性的快感を覚える女が主人公の小説である。この「抜ける」というのは男性の自慰行為を「抜く」と言うのにおそらく対応している、つまりこの主人公にとってセックスとは、相手との和合というより、オナニーに近いものだ。主人公はセックスしているときだけは、じぶんが女だか男だかわからなくなる、というより性別というものに縛られないひとりの人間としていられるような気分になっていく。村田さんはそれを否定的には描かない。

主人公のある種快楽的な生き方とは対称をなす人物として彼女の友人が登場する。その女性はじぶんをひたすら女として磨き上げ、男に評価されなくては幸せになれないという考えの持ち主。男性の評価基準に行き方を左右されている友人を主人公はどこか哀れみ、彼女のその凝り固まった固定観念をぶち壊してあげたいと思いついた主人公は、友人自身を苦しめているその価値観を壊すために突拍子もない「セックス」を、その友人の目の前でおっぱじめようとする。

これがぼくにはすこぶる面白かったし、じぶんの価値観がぐわんぐわん揺さぶられた。「体位という便利な形式」という言葉が文中に登場したと記憶しているが、その「便利な形式」を捨て去ってじぶんだけの体位を獲得するために主人公は闘っている。この「星が吸う水」では他の村田作品よりはカラッと明るい闘いではあるが、それは確かに闘いだった。

ぼくはこの小説を読み終わってからこれまで、この「便利な形式」を廃棄して「じぶんだけの体位」を獲得したい願ってきた。形式という枠にじぶんを当てはめようとするとどこかが余ってしまったり足りなくなってしまったりして少し気持ちが悪いものだ。じぶんだけの体位を作り上げることこそが人生である、とすら言えると個人的に思っている。

しかしこの闘いに挑むのはなかなかの勇気と根気がいる。じぶんのことを本当の意味で知るというのは怖いし、既に先人が編み出してくれた「便利な形式」を享受してしまっているぼくは、めんどくさいしそれでいっか、と諦めてしまったりする。そしてじぶんと形式との間の差を見ないふりをしてしまう。

恐い、めんどくさい、そういう気持ちはありながらも、村田沙耶香の描く「じぶんだけの真実を探さざるをえない」主人公たちにすごく憧れる。
人は言うだろう、恐いとかめんどくさい程度で闘わないことを選択するのなら、あなたにとって「じぶんだけの体位」はそんなに重要ではないのだと。「常識」にある程度順応できるのなら、そんな闘いしなくたっていいじゃないかと。

しかし村田さんの小説を読むと、ぼくはじぶんが「常識」に飼いならされているからこんな風になんだかんだ妥協しているのではないかと考えてしまう。

雨宮さんはこの「体位という便利な形式」に対してまったくハマりきれず、じぶんだけの体位を探すことにしか、生きる道が見いだせなかった人ではないだろうか。
村田さんの言うところの「じぶんだけの真実を探さざるを得ない」人がまさに雨宮まみだ。村田さんは「じぶんだけの真実を探さざるを得ない人が好きだし、私の書く小説の主人公にはそうであってほしい」とおっしゃっていたが、雨宮まみさんは村田さんの書く主人公そのもののような人である。だからこそ、この村田沙耶香×雨宮まみの対談は聞き逃せないものだった。

いま傷ついている人が傷つかないような世界を書く


さて、前フリが長くなったが、今回の2人の対談は『消滅世界』についてだった。

この『消滅世界』という本は、一種の寓話のようなもの。SFと言ってもいいのだろうが、この小説に描かれる世界は現代日本の現状を踏まえた上での構築されているので、突飛という印象は受けない。ギミックは確かにいささか風変わりだが。

「消滅世界」ではいったいなにが「消滅」しているのか、セックスだ。

この「世界」ではセックスが過去のものとなっている。男も女も多くのヒトが「物語」の中のヒト(キャラクター)に恋をする。もちろんヒトと恋に落ちる者もいるが、それはキャラクターに恋をするのと区別されることではない。そして、その恋人たちの間にセックスが行われることは極稀だ。むしろ体を合わせることに嫌悪感を抱いている人間は多い。

結婚した夫婦も友達同士のようで、夫婦間のセックスは「近親相姦」なんて呼ばれて忌避されている。だから彼らは人工授精で子をつくる。セックスで子供をつくるなんて歴史の教科書に載った過去の行為。セックスは純粋に性欲を満たすための行為であるため、家の外で行われる。夫がいても、妻がいても、別に恋人をつくることは咎められないし、むしろ夫婦は互いの恋の相談に乗るだろう。

主人公・雨音は、実験都市「千葉」で子供をつくることにする。そこでは夫婦制度は認められておらず、男女ともランダムで妊娠の機会が与えられている。大人は皆いちように「おかあさん」と呼ばれ、子供もまた皆いちように「子供ちゃん」と呼ばれる。家族という制度がなく、「千葉」の住民皆でひとつの共同体となっているのだ。「子供ちゃん」たちはみな「おかあさん」たちから等しく愛を受ける、家族といった旧来のシステムではなく、新しいシステムがこの都市では構築されている。ちなみに実験都市「千葉」では完全にセックスそのものが消滅しており、人びとは公衆便所のようなカプセルの中で用を足すように性欲を発散していく。
雨音は、セックスも家族も消滅させられたこの無菌室のような世界において、わが子を得ようと「千葉」に入っていくが、このシステムは強固だ。

さて、この小説の筋を聞いて、どのように思うでだろうか、セックスの消滅した世界はディストピア世界なのだろうか。

ぼくは最初、キャラクターに恋をするのが当たり前だとか、セックスを汚いものだとする登場人物たちにあまり共感できなかった。日本に生きている大半の現代人にとって受け入れるのは難しい価値観ではないだろうか。もちろんそういう「性癖」を持っている人がいるのは知っているし、それはいっこうに構わないが、それはあくまで彼らが少数派だからではないだろうか。キャラクターに恋をしたり、セックスを嫌悪したりする人間が多数派どころか、彼らによって世界が構成されるようになったら、と思うとあまりいい気持ちはしなかった。

しかし、読み進めるうちにじぶんの価値観が少しずつ揺さぶられていく、あ、確かにぼくはセックスを苦痛に思ったり、ダルいと思ったことがある、でもその一方で好きな人とセックスをする、決まった相手と一生添い遂げその人とだけセックスをする、そういうことを美しいものだとも「考えている」。
ずっと同じ相手に恋愛当初の熱量を維持しつづけ同じ相手としか寝ないという「考え」は、ぼくの感情や生理には合っていないように感じる。けれども「常識的に考えて」、「正しい」のはその「考え」の方であって、ぼくの感情や生理の方が間違っているんだとぼくは思っていた。でもこの小説は声には出さずに問いかけてくる。あなたの言う「考え」や「正しさ」や「常識」は、誰が決めたものなのか、なぜじぶんの感情や生理の方が間違っていると決めて苦しんでいるのか、と。
「消滅世界」の登場人物たちは当然のように配偶者以外の人間とセックスすることを「正しい」と考えている、配偶者とのセックスは「近親相姦」であり嫌悪されるものだ。しかし彼らの「常識」が狂って見えるのは、ぼくらがぼくらの「常識」という斧もって彼らの世界を断罪しているからではないだろうか。セックスに拘りのない「常識」が世の中に浸透したら、ぼくは案外あっさり性欲をなくし、キャラクターに恋をしたりするのがふつうになるのではないか。人間は本能が壊れた動物だとも言うし。

やがてぼくはこの「消滅世界」はユートピアなのではないかと思い始めた。少なくとも村田沙耶香は「消滅世界」をユートピアとして描こうとしているのではないだろうか。


実際この考えは正しかったようだ。村田さんは「結婚もセックスもなくなるかもしれないと想像するのが楽しい」と言い、「いま傷ついている人が傷つかないような世界を書いた」とも言った。


村田さんの周りには婚活サイトで知り合って結婚した友人がいるらしい。彼女たちの夫婦仲はまったく良好だが、ただひとつ、セックスだけが苦痛だという。けれどもお互いの血を分けた子供は欲しいから仕方なく排卵日を計算してセックスする。そのセックスを「兄妹同士でやってるみたいなんだよね」と彼女は言う。

いまは人工授精だってできるのになぜ彼らはそうはせず、不承不承セックスするのだろうか。その理由までは伺えなかったが、恐らくセックスをして子供をつくるというのがこの国の「常識」だからではないだろうか。

「処女のままでも妊娠できる」時代にあってもセックスによる妊娠に拘ることを世の中はそれとなく強制していないだろうか。「倫理」という聖域を利用して。

また、「草食系男子」ということばもむかし流行ったが、それも「男は女とセックスしたくて当然」という観念があるからこそ生まれたことばだったのではないか。いまは男女ともにアイドルやアニメのキャラクターさえいれば生身の人間に恋をしたり欲情したりしなくてもいい、という人が身の回りにひとりやふたりいても不思議じゃない。しかし彼ら彼女らは今でもなんとなく気持ち悪がられたりする。


現代において、ひとりの恋人とだけセックスするという価値観に反旗を翻した場合、傷つくのは反逆者の(元)恋人だろう。しかし彼・彼女が傷つくのはなぜだろうか、それはひょっとすると、「ひとりの恋人とだけセックスするという崇高な考え」の元でじぶんが大切にしてもらえなかったと考えるからではないだろうか。みんながみんな、セックスする相手と、恋する相手と、結婚する相手をそれぞれ別に持つような「常識」がある世界だったら、ぼくたちは恋人からぼくらの知らない相手と寝ている話を聞かされたとき、どのように感じるのだろうか。


そういう現状に「傷ついている人」たちが安心して過ごせるような世界を村田沙耶香が考えたときに、「消滅世界」の実験都市「千葉」が発想されたわけだ。

ここで強調しておきたいのは、村田沙耶香のこの思考実験は、実際に起こりえないといって唾棄するようなものではないということだ。
村田さんはこんなエピソードを話していた。彼女の友人は、街中でどこかよくわからない国の男性にナンパをされ、付き合うようになった。しかし付き合っていくうちに、彼には国に妻がいるということがわかったのだ、もちろん友人はガッカリしたのだが、彼に聞いた「あなたの国は一夫多妻制なの?」彼は「違う」と言った。それを聞いた友人は怒って彼とは別れ、この話を聞いた村田さんも「それはダメだ」と怒ったらしい。
しかし村田さんは、考えた。彼が一夫多妻制の元にいるならば許せたのに、一夫一妻制の元にいるから許せなかった。このときの「許せる/許せない」の切り替わりでは何が生じているのだろう。
もしこの国が明日から一夫多妻制になったら、ぼくたちは案外(当然?)あっさりとその価値観に馴染んでしまうのかもしれないのだ。この辺りはウエルベック『服従』を読んでも思うことだ。「消滅世界」のような世界が、訪れないとは限らない。


この『消滅世界』が出版される前に行われた刊行前読書会では、マイノリティーであることによって世間から後ろ指を差されているという方が「私にとっては『消滅世界』がユートピアで、むしろ現実の方はディストピアです」という感想を書いていたというエピソードも紹介された。いまある常識に傷ついてる人、彼らを傷つける常識はなぜ当たり前に存在しているのだろう、彼らが救われるような世界とはなんだろう、それを考えに考えた結果が、この小説なのだ。むしろ「消滅世界」を望む人間がいるのだ。

 

産めよ増やせよ」が押し付ける「理想の夫婦像」


雨宮まみさんの『消滅世界』に対するコメント、そしてそこから敷衍して出された現代社会への指摘も大変おもしろいものだった。


たとえば村田さんが「女3人で同居して1人が出産・子育てを担当し、別の2人が仕事をして食い扶持を稼ぐという生き方も現代では選択できる、なのに誰もやらないのはなんでだろうと思う」と述べると、雨宮さんは「産めよ増やせよという国の圧力がなんだかんだ浸透している。旧来的な家族システムが崩れると困るから(常識という)縛りが強くなっている」と分析した。


ひとむかし前の「女は産む機械」発言だとか、先日、成人式で浦安市市長が「出産適齢期は18~26歳、人口減少のままで今の日本の社会は成り立たない、若い皆さんにおおいに期待をしたい」という馬鹿げた言説はすぐに糾弾される(ちなみに日本産科婦人科学会は18~26歳が出産適齢期と定義した事実はないとコメントしています。一般向け冊子では「35歳ごろまで」とされているそう http://www.huffingtonpost.jp/2016/01/14/jsog-deny-urayasu-mayor-18-26_n_8984348.html)。


しかし、これらの思慮を欠いた発言が批判されても、現実にいまなお維持されている家族システムが「正しいもの」だと考えている日本人は少なくないだろう。
自民党が唱える「家族の助け合い」には拒否感を示しても、シングルで子育てをする親に対する差別がなくなっても、いまなお「両親の愛を一身に受けて育つ子供」のいるような家庭を理想像として持っている人は多く、村田さんの「女3人で子供を産み育てる」なんて発想は全然受け入れられないし、現実的ではないと考えてしまうのが、ぼくたちだ。
「旧来の家族システムが正しい」という常識の壁はかなり分厚く完全に崩れるまではまだまだ時間がかかるだろう。

また、雨宮さんは「不倫している人もたくさんいるのに、未だに夫婦は他所でセックスをせず2人の間だけで仲良く行われるべきという常識がある。なんで不倫は責められるのか、それは皆けっきょく感情が自由になるのが恐いから。結婚したら相手一筋であってほしいと現実に理想をおしつけている」とも言っていた。

この「不倫している人もたくさんいる」というコメントは恐らく坂爪真吾さんの『はじめての不倫学 「社会問題」として考える』を踏まえたものだろうが、ぼくは未読なので、いずれ読んだら感想をツイッターかnoteかここに書きたいと思うが、この本のタイトルを借りれば、実際、不倫は社会問題なのだろう。ということは、これは個人個人の倫理観を「正す」という話ではなく、社会構造になんらかの原因があって起こっている問題が不倫なんだ、ということになりそうだ。

社会構造、つまりお上の望む「産めよ増やせよ」の政策目標が人びとの心に植えつけた「理想の夫婦像」という「常識」が、この日のトークイベントでは疑問視されていたのだろう。


『消滅世界』をきっかけにしたお2人のトークには色々な示唆があった。「じぶんのだけの真実を探さざるをえない」人こそが、固定的な価値観を、閉塞的な社会のあり方を変えていくのかもしれない。

 

 

消滅世界

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女子をこじらせて (幻冬舎文庫)

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