寝顔
寝顔のない人間はいない。そのことを頭では分かっているのだが、おれは人の寝顔を思い浮かべることができない。安倍首相がどんな寝顔をつくるのか、何を着て寝ているのか、昭恵と同じベッドで寝ているのかどうか、見当もつかないのはまあ無理はないとしても、例えば仕事で関わりのある人たち、インターネットで知り合った友人たちの寝顔もまったく想像できない。
大学の友人までなら寝顔もなんとなく覚えている。みな険しい顔をしていた。安らかに眠っているヤツなんてひとりもいなかった。それは遊び疲れた後の顔だから。眠っていても、ふだん一緒に寝ない連中といるがゆえ、多少の緊張感があっただろう。あの寝顔たちは、おれの知りたい寝顔とは違う。彼らはひとりの夜、どんな顔して眠っていたのだろうか。
家飲みでへべれけになりフローリングで電池の切れたおれの寝顔、友人に撮られたことがある。おでこに右腕を乗せ、眉間にはシワが寄っている。そして唇をこれでもかと尖らせていた。顔の中心に向けて力を集中させないと、福笑いのようにパーツがばらけてしまうのかもしれなかった。酒の飲み方がまったく分からないころのことだ。
あのときの寝顔、すごくブサイクだった。おれの寝顔は汚かった。
みんなも寝顔は汚いんだろうか。寝起きの口は臭いのだろうか。みんなもちゃんと汚くあってほしい。
むかし、イビキを録音してみたことがある。7時間半、iPhoneにプリインストールされたアプリで録った。飛ばし飛ばし再生してみると、すごく大きないびきが30分続き、1時間止む。また30分いびきをかき、1時間休むいうサイクルだった。1時間の休止中、部屋のなかはとても静かだった。たまにベッドのきしんだり肌が掻かれたりする音が聞こえる。静かな部屋で眠っているひとりの男の動く音が孤独だった。誰にも聞かれることのないいびきは、自分の生の無意味さを象徴していた。
みんなも眠っているのだろうか。
「犯罪者であっても スヤスヤ眠る 素晴らしき世界だね」と中村一義が歌っていたが、本当に犯罪者もスヤスヤ眠るんだろうか。犯罪者は『レオン』のように片目を開けたまま座って寝るんじゃないのか。
妻に、「おれ寝言いう?」とか「寝顔汚いでしょ」などと言ってしまう。寝言は言わないね、いびきも最近は聞こえない慣れただけかな、寝顔かわいいよ、と言ってくれる。「寝顔汚いでしょ」と聞くときおれは、真実なんて欲してない。「かわいいよ」と言われたがっている。そうだねえ、ブサイクだねえ、と言われたら多分傷ついちゃう。
でもまあ「かわいいよ」の言葉がもしも嘘であったとしても、おれの眠りを見る人が横にいるのは、素晴らしき世界だね。
おれも妻の寝顔を知っている。かわいいよ。