むかしの女
ニートにも5月病があるということがわかった。
ただ、ニートの5月病って、新生活はじまって以来持続していた緊張の糸が大型連休によって断ち切られてしまってやる気が取り戻せない、というのとは違って、社会であくせく働いている立派な人たちとつかの間のファンタジーを共有して楽しかったのに、彼らはファンタジーの世界から離れて帰る場所があるということによる、取り残されてしまう者の悲哀というか、寂しさというか、そういう類のものだった。ニートの5月病は、残された者たちの寂しさだった。いつからか「日常」がうらやましくなっていた。
とは言ってみたものの、それらしくまとめて言ってみたものの、ニートの5月病だけで片付けずに個人的な話、俺のゴールデンウィークがバッドエンドになってしまった理由といえば、むかし付き合ってた女との、行き先のないむなしい文字だけのやり取りが切なくて、ってなわけで。
正直に言って、いまも彼女のことを心の底から何よりも好きかっていうと、すぐに頷くことができなくて、それがまたむなしく切ない。
だって、確かに大切には思うけど、彼女の健康とか心配だけど、誰よりも気がかりだけど、本気で心配しているなら俺は、朝日が登ったら支度してハローワークに行って彼女を取り戻すために食いぶちを確保するべきで、けっきょくそういうことをしていないってことは、そういうことなんだろう。
宇多田ヒカルは「どんな言葉並べても 真実にはならないから 今日は贈ろう 涙色の花束を君に」と歌っていて、つまりそういうことだ。
俺が何よりも彼女のことを想っていたら、きっと涙色の花束を買うためにお金を稼ぐはずなのだ。道端で積んだ花じゃもうダメだった。おざなりの優しさがいまひとつ精細を欠いてどれくらいの時間が経っただろう。
男の恋は「名前を付けて保存」だけど、女のそれは「上書き保存」だってよく言うけど、そうなってしまうのが怖いだけなのかな、とも思う。
ただはっきり言えるのは「私の中のあなた、あなたの中の私」(ホン・サンス『気まぐれな唇』)、そういうものが失わていくのはすごくかなしいということ。
これを「あなた」が読んだら愛想尽かすんだろうか。……やっぱり俺は自惚れているな。愛想尽かされたから、彼女は、むかしの女になったんじゃないか。