『そして父になる』、『男と女のいる舗道』、『インターステラー』について、ずっと昔に書いた感想文
ずーっと昔に書いた映画感想文を発掘したのでここに晒します。
めちゃくちゃ背伸びしてるくせに下手くそで、完全に黒歴史という感じですが、これでも数ある中のマシなやつです(そう思えているからここに上げている。それは裏を返せば、これくらい書けてればいまでも人目に晒せると思っているということでもあって、それはとても恐ろしいことなのかもしれない)。
ぜんぶいまから2年くらい前に見て書いたやつです。繰り返すようですが、この3つ以外にも感想文はたくさんあったのにあえてこれらを選んだのは、3つに共通点があるからではなく、比較的読みやすいからです。
『そして父になる』感想
実の子だと信じて疑わなかった少年が実は、出生時に取り違えられていて、別の夫婦の子どもだった。6年間共に暮らしてきた子どもと実は血がつながっていなかったのだと病院に告げられた夫婦が、本当に血のつながった息子と、彼を6年間育てた夫婦に会うところから、この映画の物語は駆動する。
福山雅治・尾野真千子演じる野々宮夫妻と、リリー・フランキー・真木よう子演じる斎木夫妻はこうやって不意の交流を始める。
前者の男にはエリートの夫/父であるがゆえに、家族を思いやれないという「つめたい印象」が与えられ、その一方で、後者の男にはブルーカラーの夫/父であるがゆえ、家族と信頼関係を築いている「あたたかい印象」が与えられる。劇中、東京スカイツリ―を望む高級マンションや、黒塗りのレクサス、スマートフォンといった記号は「つめたい印象」を補強するために散りばめられ、その一方で、工場兼自宅や、軽ワゴン、ガラケーは「あたたかい印象」をより際立たせる記号として使われる。
しかし、これらの記号は印象を補強しているだけには止まらないのではないだろうか。このとき起こっている事態とは、記号が印象を生み出すだけということだけではなく、同時に、印象が記号に意味を付与することでもあろう。
この映画を観た人々は、現実の光景を目にして、「あの人は高級マンションに住んでいるから、レクサスに乗っているから、つめたい人だ」と考えるようになるかもしれない。本作のラストシーンは斎木一家の暮らす工場兼自宅で飾られるが、あれこそがこの映画の限界なように感じる。
例えば、高級マンションのリビングで繰り広げられた疑似キャンプ、ああいう観客の心を突く表現ができるがゆえに、是枝監督に対して観客は、この映画のラストにステレオタイプを打ち破る表現を期待してしまう。しかし実際には、『そして父になる』のラストは、「つめたい印象」の父が、「あたたかい印象」の家に包摂されるという形でめでたしめでたしとなってしまう。
このラストに物足りなさを覚える観客にとって、エンドロールのグレン・グールドの咆哮はぴったりであった、という皮肉がある。
『男と女のいる舗道』感想
アンナ・カリーナが出づっぱり。
彼女のダンスシーンや、娼婦としての立居振舞いを身に着けていく過程、煙草を吸うしぐさには、どれをとっても、可愛らしい色気のようなものが漂っている。こういう女優は、長回しで撮っても画面が耐えられる、というか、観客は、長回ししてほしくさえなる。
『勝手にしやがれ』のベルモンドと同じように、アンナ・カリーナは路上で撃たれて死ぬ。唐突なように思えて、必然のような死。
人は必ず死ぬけれど、死ななければならない理由なんてものはあるのだろうか。
『インターステラー』感想
クリストファー・ノーランが私的な作品を撮ると、こんなにも素晴らしい映画が出来る。『インターステラー』の根幹には、NASAもアメリカも人類も関係ない。
本作で、NASAは一物理学者の欲望を満たす機関と化し、惑星に刺さる星条旗はボロボロに朽ち果てている。ましてや劇中、人類なんてものは言葉としてしか現れず、スクリーンに映しだされるのはもっぱら、宇宙とコーン畑。ニューヨークもトーキョーもチャイナもパリもアフリカも見せてくれない。では、ここでは何がテーマとなり、物語られるのか。
「インターステラー」とは「星と星の間の」や「惑星間の」という意味を持つ英単語だ。結論を急ぐと、この映画は「対象と対象の間」をテーマにしていると言える。惑星と惑星、過去と未来、親と子……。空間と時間を超えて、「対象と対象の間」をつなぐもの、それはワームホールでもブラックホールでもなく、愛である。
彼を知る観客たちにとっては、あまりにも唐突に登場するマット・デイモンは、惑星に一人取り残されていた博士なのだが、彼は、人間は人類のために行動することができず、自分の家族や身辺にいる人にしか愛を注げない、と言う。悲観的な、しかし説得力のあるこの主張を本作は否定することなく、むしろそれこそが人類の希望であると宣言している。『インターステラー』では、マシュー・マコノヒーが、子を想って流す涙が、結果的に人類を救うのだ(『ウルフ・オブ・ウォールストリート』や『ダラス・バイヤーズ・クラブ』の後だからこそ、よりグッと来る)。
人類を救いたい、正義を実行したい、という大仰な志を描くことから後退(あるいは前進)し、愛という卑近なテーマにフォーカスしたことで、ノーランはこれまでの熱心なファンたちから批判されるかもしれない。しかし、不器用なノーランは我々の想像力の臨界点である宇宙を舞台にしてしか、愛を描けなかった。そう考えると『インターステラー』は、映画史に残るあいくるしいヒューマンドラマとは言えないだろうか。
これらの文章を読んで、2年経って少しは文章上達したんだなあと思ったけれど(あるいはそんなに変わらなかったりしますか……?)、見た直後にしか書けないほとばしる何かしらが残っている気はしたので、ここに晒しておきます。
「映画史に残る」って、お前は映画史の何を知ってるんだよ…って話……。