ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

言葉

今日は恋人と近所の担々麺屋に行こうって言って部屋を出たのに、とりあえずの缶ビールを片手に散歩して気づいたらバーミヤンで酒飲んでつまみ食べてチャーハン食べて、ちゃんと担々麺も食べた1日だった。まんぷく。

 

隣のテーブルではママと幼い娘とおじいちゃんおばあちゃんがなんとも言えない空気になっていた。断片的に聞こえてくる会話を俺が読みとったところでは、ママは夫とうまくいってない、あるいは離婚した。彼女は子育てと自分の仕事の両立がうまくいってなくてイラだっている。娘と孫娘を心配したおばあちゃんは娘にハロワを勧めている。おじいちゃんは「こんなもん俺にとっては水みたいなもんだ」と言いながら次の酒を頼んでいる、彼は妻と娘の言い合いがヒートアップしそうになると、眠くてぐずる孫娘に「ごま団子食べるか?」と聞く。ぐずる娘を連れてママが外に出ると、おじいちゃんおばあちゃんは裁判がどーのこーのと話す。おじいちゃんは裁判になったら勝てるんだから大丈夫とか言うとる。テーブルに戻ってきた孫娘を呼び寄せたおばあちゃんは「お母さんに何言われたの?教えてごらん」と執拗に迫る。ママの顔は疲れている。

 

俺は恋人とたらふく食べて飲んで満足した。あんだけ飲み食いして5000円いかないのマジ優秀だ、バーミヤン

 

 

嫌いっていうのは、その嫌いな相手のずーーーっと手前に、その相手を嫌いな自分がずどーんと仁王立ちしていて、そいつと向き合って、そいつがわたしを苛めて、痛くて痛くて痛くて、はじめて成立する超個人的な感情なんだよー

大森靖子 公式ブログ - 「死ぬとか生きるとか歌われてうるさかった」 - Powered by LINE

 

 

 

俺もインターネットの片隅でこんなブログを書いている。自分のやりたいこと・言いたいことはまだハッキリとは捉えられていないが、あると信じているから書いている。けど、自分の好きとか嫌いについてはそんなに書いてはいない。インターネットにおいては、自分の好きも嫌いも、ちゃんと説明できないと即座に切り捨てられてしまう可能性があると思っているからだ。

自分の好きや嫌いがうまく説明できなかったがゆえに弁の立つ他人に自分の感情をうっちゃられるのは癪だし、かといって取るに足らない文章だからといって無視されんのもつらい。だから俺は否定されても構わないくらい自分の感情に自信がある文章か、自分のアイデンティティーを脅かさない程度にどうでもいいことしか書いてないはず、多分。昔はどうだったかは覚えていない。今はそういう心境だ。

 

言葉っていうのは費用対効果が低いシロモノだ。億のステキな言葉を捧げても、ひとつのネガティブワードを誤って送れば事態はひっくり返る。だから、言葉の運用にはめちゃくちゃ慎重にならないといけない。自分にとっては単なる「言葉のあや」でも、それが相手を深くえぐってしまうことがある。また、自分自身の言葉のミスを執拗になじられ、ワンミスから自分の根底まで揺さぶられるようなキツい展開も起こりうる。あるいは、つらいすれ違いが起こってしまう、かなしい。

 

言葉は大切に使わなきゃならない。俺はそれを全然できてない。それゆえにいちばん大切な人を何度も傷つけた、愛しているのに。

 

さっき「ワンミス」と言ったけれど、そのワンミスは本当に「言葉のあや」なのかという問題もある。自分の本心が思わずうっかり出ちゃったんじゃないか、と自問する必要がある。

自分の本心とは違うのに、言葉のセレクトミスで本意ではないことを伝えてしまう。そういう悲劇もたくさんある。

 

 

俺はつい最近までこんなことにも気がつかなかった。自分は言葉を使うのが上手だと思っていた。しかし、最近毎日文章を書くようになってからというもの、「俺は本当に文章がヘタだ」と毎日落ち込んでいる。言葉を正しく使うためにはものすごい努力をしないといけない。そんなことも知らなかった。

 

 

今日読んでた本の一節。

 

修辞の目的とするところは 、説得ということであった 。我々は修辞を用いることによって 、我々の相手に信頼の念をおこさせようとする 。修辞的な証明 、すなわち 、エンテュメーマは 、論理的な証明 、すなわち 、シュロギスモスとは異り 、話される事物によって規定されることなく 、もっぱら話す相手の気分や感情によって規定されるところの証明だ 。それ故に修辞は 、話す相手がないと存在しないであろう 。

 

花田清輝『復興期の精神』

  

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

復興期の精神 (講談社文芸文庫)

 

 

エンテュメーマとかシュロギスモスとかよくわからんけど響いた。

俺の文章が下手くそなのは、俺が生まれてこのかた、話す相手を持っていなかったせいなんだと、この文章によって気づいた。

しかし、「俺は文章が下手だな、言葉の運用が不得意だな」と気づいたのはここ最近のことで、それは今の恋人と出会えたからだ。多分彼女は人生初めての「話す相手」なんだよな。母親とか友人とかって、どこか自分の延長線上だった。だから彼らとの会話は独白にも似ていた。でも恋人は他者で、それなのにとても分かり合いたい人だ。それが「話す相手」だ。

 

 

嫌いなこととか嫌いな人のことは放っておいて、好きなことや人についてだけ話そう、みたいなの、よく分からん。自分の感情にフタをしろってことなのか?「嫌い」も「好き」と等しく、ただの感情だろう。

感情にフタはしなくていい。でも、生々しい感情を表に出すなら言葉を正しく使え、もしくは間違えてもいいけど責任は持て、というのがスタートなんだろう。俺はその点全然ダメだ、だから多少なりともがんばっている。

自分の気持ちも、相手の気持ちも同じくらい大切にするのが本当に難しい。だって自分の気持ちすらよく分からんからね。