あいかわらず
朝日が照らし出した人影はカーテンを歩く。朝。昨日は飲みすぎた、と思ったが、昼過ぎから飲んでたってだけで、量はそんなに飲んでいないはず。今年のはじめから、俺の住むアパートは鉄の足場で囲まれている。足場を男たちが歩く。
春が来たら足場は撤去されるという。毎日少しずつアパートの壁や床が直されていく。
目覚めてから1時間経つが、まだ水も飲んでいない。
東南アジアでの研修旅行を終えた地元の友人は、地元行きの飛行機に乗り換える前に、東京に住む俺と会った。半日ふたりで過ごした。
彼とは高校1年のころからのつきあいで、かれこれ10年になる。正午過ぎから2時間居続けた渋谷センター街の「一軒め酒場」の有線から、菅田将暉の歌う「キセキ」が流れる。2008年の曲だと友人は言った。東京に住むようになってからの7年は、GReeeeNの「キセキ」を歌えてしまう自分から逃れたいと、心のどこかで思いつづけていた気がする。「e」の数を正確に書けてしまう。
東南アジア帰りの彼は東京を寒がって銭湯に行きたがっていたので、空港へのアクセスを考慮し、蒲田温泉に行くことにした。山手線に乗って、品川で降り、京急線に乗り換え、蒲田で降りる。睡眠不足でアルコールの回りが早かった俺と、旅行の疲れで同じく酔っぱらった友人は、山手線のなか、ややでかい声で卑猥な話ばかりしていていけなかった。彼が東南アジア帰りだからしょうがない。何千バーツで女が買えるなんてとんでもないよな、ハマる人がいる理由もわかる、とか言っていて、話してることはあいかわらずエッチなことのはずなのに、高校生のあのころとは全然違ってしまっている。
なんで童貞のころの自分ってあんなに輝いてみえるんだろう。童貞のころの俺は、いまの俺になることを一瞬でも想像しただろうか。45番のバスに乗って学校から帰るとき、俺たちはどんな話をしていたんだろう。
蒲田温泉は駅からそう遠くない銭湯だった。俺は東京に住んで長いが、去年の秋はじめて銭湯に行った。風呂に入る習慣がないから、銭湯に行くという発想がなかった。そのときは恋人に誘われて行った。銭湯はいいもんだった。
東京に住んでいない友人が「銭湯行きたい」って提案するのに驚いた。俺の地元はどちらかといえば本州よりも東南アジアに近い気候なので、風呂に入らずシャワーで済ませる人が多い。
銭湯なんて初めてだろ?と聞いたら、「こないだ『湯を沸かすほどの熱い愛』って映画を見て行ってみたくなった」と、彼は髪を洗いながら言う。あいかわらず素直だ。彼はあいかわらずメロコアバンドをやっている。えらいな、と思う。
あいかわらず恋人のできない友人は、かといってモテないわけじゃない。モテるわけでもないが。ふたりの姉と仲のいい末っ子の彼は、女と仲良くするのは上手だ、女が気を許しやすい雰囲気みたいなのをまとっているらしい。俺は男だから、彼がなぜ女に言い寄られるのか、本当のところはよくわからない。
こないだは、飲み屋で出会った離島から遊びに来た女と寝たという。本島滞在中の彼女と3回寝たらしい。付き合ってみりゃあよかったのに、と言ってみたら、「遠距離恋愛なんてできる気がしない」と真面目な顔して返された。「どうせ付き合うんなら会いたいときに会いたいからさ」とか言ってて、それは好きってことなんだからやっぱりつきあってみるのが正解なんじゃないの?と聞いた。「そっか、俺は彼女のことが好きだったのか」としんみりしやがる。笑える。
「でも、彼女がちょっと重くてさ」とも言う。
恋した女はみんなメンヘラなんだぞ、と言ってやった。大森靖子の受売りだ。
大森靖子⚫️キチxxxガイア on Twitter: "世の中の彼女という存在は全員メンヘラ。メンヘラじゃない彼女なんかセフレですよ。ポップコーンラブ http://t.co/eHhQy6Dccd"
メロコアのように2分半で爽やかにさっぱり終わる女なんてつまらないじゃないか。
慣れないサウナに入り、水風呂に入りきれず、電気風呂に笑って更衣室に戻る。体重計に乗る。体重を見られた。彼女のメシが美味くてさ、と言い訳した。ふたりで缶ビールを飲んで銭湯を後にした。
飛行機の時間にはまだ余裕があったので駅の近くのニイハオに行く。焼き餃子とか水餃子を食う。具がシャキシャキ歯ごたえあってうまい。水餃子の皮はもちもち分厚い。ほんとうはチャーハンとか食いたかったけど金がなかったので注文しなかった。青島ビールとメガハイボールを飲んだ。4800円だった。研修旅行ほとんど金使わなかったから、と言っておごってもらってしまった。ワリカンにすれば払える金額だったのに。財布のなかに入ってたのは借りた金だったが。
店を出ても名残惜しく、コンビニでハイボールを買って公園で飲んだ。日の落ちた公園では、日曜を名残惜しむように、少年たちが鬼ごっこをしていた。向こう側のベンチではホームレスが寝床を準備している。友人は2時間後には空のなかにいる。せっかく東京にいるのにこんな辺鄙な公園で飲みながら酔っぱらった彼は何度も何度も今日は本当に楽しいと言っていた。なんだか泣けてくる。せっかく銭湯で温まった体はとっくに冷え切ってしまった。
「みんないろんな決断をしていろんな風に生きてるけど、けっきょく何が正解かなんて今は誰にもわからんし、決めたらとにかくやるしかないんだよな、だから、俺はお前に何も言わない。まあ1年に1回は会えたらいいな」と言う彼は疲れているけど、翌日からまた働くのだ。
再会するたびに「地元帰ってこいよ」と言っていた彼は今回「お前ずっと東京にいそうだな」と呟いた。なんで?と聞いたら「直感」とこたえる。「俺、お前以外の人間には『なんとなく思ったこと』って話さないけど、お前には話しても『まあいっか』と思ってる」とかまっすぐな目で言うから、俺は目をそらす。
空港まで見送ろうと思い、京急の改札を通ろうとしたら、財布がない。俺はまた財布を忘れたらしい。あいかわらず俺は忘れっぽい。やっぱりここで別れよう、俺財布忘れたから公園戻るわ、と笑ったら、彼は真剣な顔して「はあ?しょうがねえなあ、俺も戻るよ」と言っていっしょに駆け出してくれた。たくさんの少年はまだ走り回っていたけど、俺の財布はちゃんとベンチに落ちてたので、目のあった少年に、ありがとう、と言ってみたらきょとんとされた。
保安検査場を通るとき、友人はいちども振り返らなかった。そういうやつだ。
羽田の国内線ターミナルで人を見送ったのは、上京してきた母とキョーダイを見送った以来だろうか。せっかくなので、展望デッキから友人の乗る飛行機を探した。見つかった。62番搭乗口から伸びる通路がANAの機体につながっている。
彼と俺が好きだった、もっと言うと母も好きだったエルレガーデンもアップルミュージックに入っていたのでそれを聞きながら、飛行機と東京の夜景を眺めることにした。「Supernova」「スターフィッシュ」「Make a Wish」と聞いたところで、彼の乗る機体が動き出した、ふと空を見上げると、オリオン座が目に入る。大森靖子「オリオン座」を聞きながら星を見続けた。涙が出てくる。飛行場に目を戻すと、友人の乗る機体がどれだったか、わからなくなってしまった。
そんなことを、眠る前、電話で恋人に話したら「君らしいね」と笑われて、うとうとしながら俺は嬉しかった。
涙を流しながら展望デッキを歩いていたら、小さい女の子が暗闇のなかを笑いながら走っていた。ときどき立ち止まって、両親を振り返る。床には青と緑の電球がいくつも埋め込まれていて、女の子はしゃがんでそれに手をかざす。自動ドアのところまで走っていった女の子は立ち止まり、ここではじめて不安げな表情を浮かべる。彼女はまだこの先にひとりではいかない。遅れてやってきた父親に抱きかかえられた女の子は、両親と3人して空港のなかに戻った。
涙を止めた俺は、空港の中華料理屋でチャーハンを食って帰った。