シンゴ
今日こそ勝つ、と決意した。
背の低いシンゴの太い首を握る右手に、俺は力を入れなおした。ここで手を離すから、いつも逆襲を喰らうのだ。でも、もう潮時だ。勝たなくてはならない。
これまでの俺は勝利におびえ、勝者の責任から逃れたくて、負けていたのだ、と思った。勝利の栄冠はどう扱ったらいいのかわからないし、勝者として敗者にどう相対すればいいのかなんて、見当もつかなかった。
負けたシンゴを見たくなかった。敗者・シンゴとはもう二度と関われないような気がした。
でも、今日の俺は両手で彼の首を絞める。
グッと絞まったシンゴの首に再び、青く太い血管が浮き上がる。ハンサムな顔に、焦りの色が出た。大きな瞳が血走り丸く見開かれている。色白の頬がくすんでいく。
シンゴとはずっと仲が良かったのだが、ちょっとしたキッカケで---使い古された言葉で言うなら、ボタンの掛け違えってやつで---気持ちがすれ違っていった。
あの頃の俺たちはあまりにも若くて、周りの連中にボタンのずれたシャツを着ていることを指摘されても、わざとやってんだよ、とうそぶいた。
ほんとは、シャツのボタンを全部外して胸のうちを見せ合い、それからボタンを掛け直したかった。でも、シャツの下の素肌を見せ合うのは恥ずかしかった。胸毛が生え始めたころのことだ。
いつもふたりでいたシンゴと俺は別れた。離ればなれになった俺たちの身の処し方は対照的だった。
俺は、学年のどのグループとも関わらなくなった。これまで、シンゴを通して他の連中と関わっていたからそれは必然だった。今ならためらいなく訂正できる。俺は誰とも関わらなくなったのではなく、関われなくなったのだ。
休み時間になると4〜6組の教室前にあった多目的スペースの、片隅にある棚の上に寝転がり、寝ているフリをするようになった。
その一方でシンゴは、ひとりになったことの寂しさを埋めるように、今で言うところの「スクールカースト」トップの集団に食い込んでった。もともと明るいヤツだったからすぐに「権力者」グループに溶け込む。それまでの彼は俺と一緒になって「権力者」然として振舞う「権力者」たちを疎ましく思っていたのだけれど。まあ、仕方ない。
俺の通っていた学校で、スクールカーストトップは「権力者」と自称し、下々の者たちもその呼称にならっていた。あの頃はその呼び名自体には何の違和も感じなかった。
孤独に埋まっていった俺と、孤独を埋めていったシンゴの差はすぐに出て、スカしていた俺はときどき「権力者」のなぶりものにされるようになった。彼はあちら側からボロボロになっていく俺を見ていた。手は出さなかった、見ているだけだった。
でもまあ時間というのは着実に過ぎていくもので、苦痛と屈辱に耐えているうちあっという間に卒業となった。
学校を卒業してからも、毎年同窓会が開かれたため、そのたびに俺は当時の「権力者」たちと顔を合わせた。欠席は逃げだと考えた俺は、毎回出席した。それに、進学先でできた友人たちに、俺が同窓会に行けない側の人間だと思われるのも癪だった……という理由で出席したのは、正直に言うと、最初だけだ。
最初の同窓会、酔っぱらった勢いで絡んできたシンゴと、なぜか拳を交えることになった。俺は再戦を期待して2回目の同窓会に行ったのだ。
俺たちのケンカは毎年恒例となった。元「権力者」の立会いのもと、俺とシンゴは毎年殴り合った。
シンゴは俺よりも20センチくらい小さかったが、それゆえにスピードがあって小回りがきき、ちょこまか逃げながら、俺のボディに的確なパンチを決めてくる。
サッカー部でストライカーだった彼のキックはまた強烈で、俺の太ももとふくらはぎとすねは、悲鳴をあげるのが常だった。
とはいえ、所詮素人のケンカ。上背と力では俺が勝っているから、勝てるはずだった。なのに、俺はいつも負ける。
シンゴの首を掴み、彼の意識が朦朧としたところでその頬をぶん殴る、それが俺の頭のなかにある必勝パターンだった。しかし俺はそのパターンをいちども実行していない。
俺の周りをコバエのように動き回る彼の首を右手で捉え、壁に押しつける。彼は手足を振り回すが、俺の体には届かない。こうなったらもう俺の勝ちは決まったも同然。首を絞めての失神KOは味気ないから、彼の意識がちゃんとあるうちにぶん殴って終いにしたいと思う。
しかし、酸素が薄れ目がとろんとしてきているシンゴの顔を見ると、俺はいつもためらってしまう。半開きになった口のなかは真っ赤で、その舌は下の前歯の上で、のたくっている。白い肌に浮かぶ色は毎年違っていて、頬が赤く染まるときもあれば、白がくすむことも、青白くなっていくときもあった。
彼の大きな瞳が濡れていくのがわかる。
その目に見つめられた俺はいつもきまって手を離してしまうのだった。そうするとレフェリーであるところの「権力者」は俺とシンゴのあいだに割って入る。シンゴの息が整ってからケンカは再開される。このときの俺には闘う気力はもうない。
彼の繰り出すボディとローキックで重心を下げられた俺は、半ばジャンプしながら繰り出す彼の右ストレートを左頬にくらって倒れる。歓声と踊るシンゴの足元を見ながら「今年も負けでいいや」と思うのだった。
でも、今年は違った。学生時代から付き合っていた女とのあいだに子供ができ籍を入れたシンゴの左拳が俺のみぞおちを掠めたとき、俺の心は決まっていたのだろう。すがるように俺の右手首を握るシンゴの左手を見た今、そのおぼろげな決心が、決意に変わった。
彼の首に左手もかけた。両手で彼の首を締めていく。苦しそうなはずのシンゴの表情は、恍惚としているようにも見える。
気を失いかけるシンゴを平手打ちで覚ます。覚めたところではじめて彼の顔面をぶん殴る。3,4回殴ったところでレフェリーが止めに入る。ほとんど気を失ったシンゴはレフェリーに抱きかかえられる。彼の元に友人たちが集まる。ひとりの俺は、どす黒い鼻血のついた拳を舐めた。
30分後、シンゴは目覚めた。
「俺、負けたの?」と聞く声に気づいて、仰向けに寝ている彼の顔に目を向けると、彼は天井を見つめたまま微笑んでいた。唇の端が切れているのに気づいたシンゴの「痛ててて」と言う情けない声に俺まで笑ってしまう。シンゴの長く黒いたっぷりとしたまつ毛が蛍光灯に照らされている。白い肌に鼻血の跡が残っている。結婚したんだってな、と俺は声をかける。
シンゴに勝ってしまった俺は、来年の同窓会には行かないだろう。俺たちはいくつになっても「権力者」に勝ってはならないのだ。「権力者」は常に勝者で、だから、今回の俺の勝利はエラーでしかない。
生まれてくるシンゴの子供の顔を俺はFacebookで見続けるだろう。