ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

人はすごい

俺は、ポップミュージックの自作自演家がもっともかっこいい存在だと思う。自身の歴史と感性を道具に作物をつくりあげ、それを身体ひとつで何度も何度も人前で再現するに留まらず、革新していく。同時に、活動が続くにつれておのずから更新されゆく己の歴史と感性を利用し、より良い作物をつくり、それをまた再現、革新することが期待される。そして、その成果は常に大衆の感性というナマモノに寄り添わせつつも絶妙のあんばいでアップデートされてなくてはならない。これらの行為をやりつづける彼らは、もっともかっこいい存在だ。
いま書き連ねたことを読み返してみると、こんなことはどんな職業にだって当てはまるような気もしないではないけれど、でもやっぱり、自分で集め、つくり、提供する、それらすべてをけっきょくのところひとりで、あるいはごくごく限られた数人でやらなければならないという意味において、ポップミュージックの自作自演家たちが受けるプレッシャーは、常人には理解しかねる。
ポップミュージックの自作自演家が、自分のつくった歌を自分で演じることによって自身の存在をできるだけ広く遠くに届けたいという一心で活動を始めたとしても、それが多くのスタッフ、その家族の生活を支える営みに変わってしまった瞬間、彼・彼女の創造と運動は、ひとりのものじゃなくなってしまう。自分を支える者たちを、自分の脳と心と技術と身体で支え返さなくてはならない、その重圧。
そして、それと同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのがファンの存在だ。ポップミュージックの自作自演家たちが表明するファンへの感謝の気持ちは、嘘偽りないものだ。自身のクリエイティビティとパフォーマンスに誇りある人が、それによって喜ぶ者たちを愚弄するわけがないから。喜ぶ者たちを裏切らないために、これまで以上の成果を上げなくてはならない。その重圧。
想像絶するプレッシャーに日々耐える自作自演家たちは、ときに想像絶する方法でストレスを発散・解消するかもしれない。明日には枯渇するかもしれない創造の源、ステージに立てなくなるかもしれない己の身体。大衆の心の反映であると同時に、その半歩先を歩かなくてはならない彼らの心と身体は、日々軋み、パンク寸前だ。そんなときに彼らはどうやってブーストをかけるのだろうか。


俺は、尋常ならざるプレッシャーのかかる心と身体のために、尋常ならざる方法でその負担を和らげたり、あるいは爆発的なエネルギーを獲得したりすることを肯定する気は、さらさらない。でも、彼や彼女がそうせざるを得なかったのなら、その境遇に同情するのはやぶさかでない。
とはいえ、そうはせずに、己にかかるプレッシャーを、それ以上の力で押し返している人を俺は知っている。だから、同情はしても、肯定はできない。否定することもまた、できないのだけれど。

 

 

人は、願うものがある限り、果てしない。
人は、願うものがある限り、果てしない。
僕の世界、君の世界。僕の宇宙、君の宇宙。
人は、宇宙のなかにいるのではなく、人は、宇宙を持ってる。
人はすごい。人はすごい。人はすごい。人はすごい。
人は、願うものがある限り、果てしない。
人は、願うものがある限り、果てしない。