ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

「千鳥の大漫才2019」は無意味が希望だった

ニートのころに書いていたブログの文章を読んで、僕のことを「高等遊民だ」と言ってくれる人がいた。当時の僕は一生ニートでいられるわけもない、と思って少なからず焦ってもいたから「高等遊民だなんて無責任なこと言わないでくれ…」と思わなくもなかったけれど、でもやっぱり社会の外から人びとを見つめていた僕の瞳はある種の煌めきを孕んでいたんだろう。僕の感傷や焦燥はひたすらに無意味で無価値で、だからこそ日々の労働や人間関係に忙殺される社会人にとっては美しくも見えたのかもしれない。曲がりなりにも仕事をするようになり、結婚をし、子供を持ち、僕はすっかり意味と価値にがんじがらめにされていて、逃れようもなく喘いでいる。あのころの瞳の輝きはとうに失ってしまった。

 

先日、千鳥という芸人コンビの単独ライブ「千鳥の大漫才 2019」を見た。娘をベビーシッターに任せ、妻とふたり、会場のLINE CUBE SHIBUYAに行く。新築の匂いがまだ色濃いその建物で見た千鳥の漫才は教訓や感慨をまったく生まず、ただひたすらに馬鹿らしくて可笑しかった。安くないチケット代を払い、チケット代よりも高いベビーシッター代の工面に苦労して赴いたのに、なんの実利をもたらすこともなく、ただひたすらに「お笑い」に徹した漫才と寸劇(といっても1時間)を見せられる。この無意味さに僕はすっかり痺れてしまった。彼らの瞳はギラギラと無意味を見据えていた。

千鳥の漫才はテレビで見るのよりずっと愉快で、オール巨人と行くグアム旅行を紹介する旅行代理店の女・細とかげしっぽきり美の人生の奥行きや「開いてる店は開いてるし、閉まってる店は閉まってる」というトートロジーだけで最後まで突っ走る無邪気さにメロメロになってしまった。

芝居「大悟道」での西遊記も、新喜劇以下の寒い芝居が、ノブのツッコミによって「テラスハウス」を副音声で見ているときのように楽しめてしまう。オチは、それまで舞台上の登場人物の誰にも見えずストーリーに全く絡まなかったダイアンのユースケが実は凶暴な猿で、全員を惨殺して悟空の持っていた桃を奪う、というもの。この無意味さにも呆気をとられて笑うしかなかった。中村アンや山崎育三郎といった豪華なゲスト陣も完全に無駄遣いで、その無駄さが心地いい。

 

無意味や無駄を楽しむには余裕が必要で、社会に生きてしまうとそんな余裕を失ってしまいがちだ。けれど少し無理をして無意味を見に行ったあの夜は、想像以上に心を軽くした。

千鳥の生み出す大いなる無意味は、生産性とか将来性とか貯金とか健康とかを一瞬忘れさせてくれる。千鳥はこんなにもブレイクしたというのに、アウトローであり続けている。社会を周縁から見つめる視座を失わない。

とことん無意味に笑った僕らも、大悟の体現する無頼とバランスを取ってくれるノブという凡庸に擬態する存在のおかげで、すんなりと日常に帰れてしまう。軽くなった心で、また日常をなんとかこなしていく。

 

妻といっしょに会場から原宿駅まで往復を歩いたのだけれど、タクシーに乗ればあっという間につくような距離をわざわざ歩くという甘美な無駄はえらく懐かしいものだった。結婚する前は何に罹り患うこともなく、こんなふうにだらだらと歩いて意味のないおしゃべりに耽っていたのだ。無意味だけが希望だと思える夜は、千鳥のおかげでもたらされたのだった。

 

 

しかし今の僕は、意味の美しさだって知っている。その美しさを言葉にする術をまだ持たないのだけれど、そのヒントは空気階段というコンビがくれるんじゃないか、と密かに思っている。アウトサイダーが社会に居場所を確保していくその軌跡が、僕の今の支えになっている。空気階段が踊り場での足踏みを終え、階段を駆け上がる様を見つめ続けていれば、僕もこの人生をもっと上手に愛せるようになるはず。