ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

ボキャブラリー・言葉のない世界・走光性

商店街の路地を入ったところにマンションはある。昼間だというのに室内はしんとしていて、部屋を取り囲むようにしてある細い庭には、晴れた日のこの時間だけ(正午前後)木漏れ日が射す。それをカーテンの隙間から見る。眼鏡は外しているから、緑と黄の木漏れ日は、ぼんやりと滲んで見えて綺麗だ……と思った瞬間に、この光を書きつけようと思いたち、さっきまで読んでいた本をカーペットの上に置いて、刺さっていたケーブルをスマホから抜き、画面のうえに指を滑らせていく。この慌ただしさ、なんだか貧乏くさくないだろうか、どうだろう。思った瞬間にブログに書き留める節操のなさ、みっともなくないか。なんでこの感動を自分の心のなかに留めておくことができないのか。誰かにこの美しさを伝えたかったから?違う、自分のなけなしの感受性を見せびらかしたいからだった。ほんとにしょうもない、貧乏くさい。

 

庭に植わってある木の名前、ひとつも知らない。今の今まで知ろうとも思わなかった。名前をひとつも知らないまま、洗濯を干すのに邪魔だった葉と枝は、大家に断ることもなく切り落とした。この部屋は賃貸で、植栽はすべて大家のしたことだから、俺がそれら植物の種類を知らなくても不思議はないのだけれど、もし多少なりとも植物の名前を心得ていたら、ここまで安易に剪定することはなかったかもしれない。

 

世界に当てはめることのできる言葉の数の多寡が、世界への認識を深めるのだろうか。豊富な語彙がそんなに重要なのかどうか、最近はよくわからない。語彙は、あなたが社会のどの辺りにいるのかを知らせるマーキングでしかなく、あなたの世界を見る目の精度を上げてくれるわけではない。むしろ、語彙は世界をデジタルに分割していく。言葉を多くもつことで、世界の解像度はたしかに上がるかもしれない。しかし、デジタル的に美しい映像がすなわち世界への理解と等号で結ばれるかといえばそうじゃないだろう。光をそのまま網膜から脳に焼きつけられれば言葉なんて要らなかった。

語彙の数だけ、他者との共通言語が増えるから、自分がアクセスできる人間の数は増えるかもしれない。しかし、いろいろな人と話したほうがいいとは今の俺には思えないので、やはり俺に豊富な語彙は必要ない。

 

「この感情に・現象に名前をつけてくれ」という定型文を拒絶する。名付ける必要はない。名状しがたい感情や現象をそのままにしておく。名付けは暴力だから、娘につける名前には、できるだけ想いを込めたくなかった(自分たちの付けた名前に込められた意味や意図を、人からあれこれ想像されるのは気恥ずかしいという自意識も多分にあったけど。いずれにせよ、意味はともかく、かわいい音の名前をつけられた、とは思ってる)。

俺の名前には「和を重んじて、人びとを導くリーダーシップある人間になってほしい」という願いを込められているという。由来をはじめて聞いた子供のころはそういう自分の名前をかっこいいと思ったし、今でもこの名前は嫌いじゃないけど、でも、名前の通りの人間になれなかったことは少し残念だし、生まれたばかりでまだなんの意思をも表示できない人間には荷の重い名だとも思う。

娘には生まれた季節の名前を付けた。名前なんて、好きなように変えたらいいと思う、インターネットでみんながやっているように。王子様がそうしたように。

 

などと供述しながら、まだ言葉を持たない娘には、早く言葉を得てほしいと、父であるところの俺は思ってる。はやく彼女と話せる日が来ればいい。でもやっぱり、言葉のない世界にいられるのは人生のほんの一瞬の間のことで、それも尊い

 

日光の明るい窓辺に向かって這っていく娘。生物が光刺激に反応して移動することを「走光性」という。光に向かっていくのは「正の走光性」、離れていくのは「負の走光性」。太陽に向かって枝葉を伸ばす植物や光に群がる虫は正の走光性をもっていて、地中に潜るミミズは負の走光性を備える。そんな単純さでもって生きられることへの羨望。

娘は光の射す方へ手を伸ばす。俺もそうしよう。光を脳に焼きつけよう。

 

 

 

上の文章が書かれたのは1週間くらい前のこと。いまテープ起こしをしていたら偉い人の憤りのコメントが聞こえてきた。

「名前を知ることによって世界はひらけるんだよ。今の若い子は、木の名前も、花の名前も、鳥の名前も、なんにも知らない。何を考えて生きてきたんだろう」

自分の書いた1週間前の戯言を思い出した。どうせ言葉から逃れられない俺は、言葉に埋もれていくしかない。どんどん潜っていこう。