ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

濱口竜介『寝ても覚めても』感想文 あっさりと真実を選ぶその身振りと華麗な翻意、切実さ。

寝ても覚めても』がとても良かった。

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この映画に出てくる登場人物たちは、自分の感情や正義に忠実に生きている。彼らの主義や言動は“一般的”には凡庸だったり反動的だったりもするけれども、本人たちにとってそれはとても切実なもので、たとえ人間関係が決定的に破綻するとしても、彼らは自分の思いに素直に行動する。その清々しさに胸を打たれる。

 

そう、『寝ても覚めても』はとても清々しい。濱口竜介作品に対して人が「真実」という言葉を使いたくなってしまうのもむべなるかな、この映画には登場人物それぞれにとっての真実が鮮明に刻まれていく。

劇中もっとも苦々しいのは、4人の若者がマンションの一室に揃うシーンだ。舞台女優として活動する女の演技を映像で見た初対面の男が、こんなのは全然ダメだとののしる。あんたのやってることは中途半端だ、と言って怒りをあらわにする。はじめて4人で顔を合わせた面々の食事会がとても気まずい空気に包まれる。こういう空気はほんとうにイヤだなと、見てるこっちがハラハラするいたたまれなさ。

もうひとりの男は映像を見終わった直後に「すごくよかったよ」と素朴に感想していたし、もうひとりの女は中途半端だというののしりに対して「私は◯◯のことほんとうに尊敬してる、すごいと思う」と心から語り、反論する。

女優志望の演技に対して、3つの異なる感想が語られていて、それらはすべてが真実だ。見る人が異なれば見え方も異なるという、いたって当たり前のことしかここでは描かれていないのだけれども、だからこそ僕らは驚く。こんなにもそれぞれの人たちが自分の真実をぶつけあう瞬間というのは、僕らが日々生きている暮らしの中ではなかなか起こらないからだ。

見せられた映像の演技が「中途半端だ」と思っても、演技している本人に対して「あんたは中途半端だ」と面と向かって言う人はほとんどいない。

自分の友人がののしられたときに、「そんなことないよ。私は彼女のこと心の底から尊敬している」と真っ向から反論できる人もそうそういない。

人は、おかしいと思ったことにおかしいと言わないものだし、気まずい空気になったら話題の矛先を変えようとするものだ。だから、僕らは、『寝ても覚めても』の登場人物たちが各々の真実を突きつけ合う素振りに戦慄する。そしてその戦慄は、クライマックスでも見事に炸裂する。原作未読の状態でこの映画を見た僕にとって、ふたりの東出昌大がスクリーンに同居した後の、唐田えりかの選択は痛快だった。道徳も忖度も思いやりも生活も、すべてをなきものにしてしまう衝動に突き動かされた人間の振る舞いは、真実であるがゆえにとても痛く、快い。

 

日常を守りたかったり、争いを避けたかったりするから、僕はほんとうのことを言わない、そんな瞬間が毎日のなかにたくさんある。日常と真実のどちらを大切にするか。両者は時に相反してしまうもので、僕らは引き裂かれる。けれども、『寝ても覚めても』に出てくる人たちは、あっさりと真実に手を伸ばし、それゆえに困難に直面する、そしてその状況を引き受ける。それを見た僕は清々しさを覚える。

 

寝ても覚めても』の素晴らしさは、真実を選ぶときの身のこなし方だけではない。彼らは、一時は“真実”だと思って選んだものが誤っていた場合には、実に鮮やかに、軽やかに、身を翻す。たとえば、「あんたは中途半端だ」と女をののしった男は、華麗な土下座で謝罪するし、終盤では唐田えりか演じる朝子も、実にあっさり「ごめん」と言って、来た道をひとり引き返す。彼らは「やっぱり違う」と思ったら、自らの過ちを素直に受けいれ、やり直すことができる。実にシンプルなことなんだけど、僕らにはなかなかできないことを、『寝ても覚めても』の登場人物たちはわりとあっさりやってのける。翻意の身振りも華麗だ。もっとも美しい翻意は、超ロングショットで映し出された、亮平の逃走と朝子の追走。状況としては実はまるで滑稽なんだけれども、あのシーンは愛の切実さへの祝福に満ちていると思った。

 

 

一人二役を演じる東出昌大がとにかくすごい。ここ最近見た映画だと『パターソン』のアダム・ドライバーの声がとても良かったのだけれど、麦を演じるときの東出の声はこれしかないという感じの幽霊感。『寝ても覚めても』の《寝てもサイド》が麦との日々で、《覚めてもサイド》が亮平との日々だとすれば、その両方を特徴づけるのは、なんといっても東出昌大の声の違いだと思う。もしもこの映画をサイレントでやったら、観客は今画面にいる東出が麦なのか亮平なのか、こんがらがってしまうのではないかと思うほどに、声の変化が効いていた。

オーディションで選ばれて映画初主演という唐田えりかの演技もほんとうにすごい。というか、演技ってなんなんだろうと思う。唐田えりかがクローズアップでスクリーンにいるとき、僕ら観客を彼女が眼差すとき、彼女はなにを演技していたのだろうか。ひたすらにむき出しの顔があって、僕はそれに戦慄し、鳥肌が立ち、彼女の表情になにかを感じる。そこで立ち上がるエモーションは、おそらく観客の数だけ無限にある。言葉で感想できなくたって、僕らの心に起こった波の形はひとつとして同じではない。
彼女の表情は自律的になにかを物語っているのではなく、僕らが彼女に物語らせるのではないか。無言の唐田えりかにはそんなことを感じる。

 

『火花』や『勝手にふるえてろ』の渡辺大知も素晴らしかったし、「ひよっこ」の伊藤沙莉もコメディエンヌとして効いていた。瀬戸康史もなかなかにあくが強い感じで好演だったと思う。若手俳優がみんな生き生きとして見えた。生き生きと演じている、というよりも、生き生きと生きている。そんな感触が『寝ても覚めても』にもあって、濱口竜介作品を見る醍醐味はこれだなと思う。

 

tofubeatsの音楽も良くて、エンディングの「River」は傑作。

平成のはじまりに昭和の終わりとしての「川の流れのように」があって、平成の終わりに「River」が生まれたのなら、それはとても良いことだと思う。

川の流れのように おだやかにこの身をまかせていたい」なんて悠長なことはもう言ってられない僕らは「とぎれることはないけど つかめない」愛を求めて沈みゆく《私/あなた》を、そっとすくいあげてほしいし、すくいあげてやりたい。切実に。