ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

3000字書いてみる

自分の体になじむ言葉を忘れてしまった。いや、そんなもの初めからなかった。俺は誰かに読んでもらえるのが嬉しいから書いていた。あの文章よかったね、と言われたくて書いていた。

でも今は散歩するように書きたい。自分にしっくりくる言葉が欲しい。

 

散歩するように、というのはなかなか難しいのかもしれない。歩いていれば勝手に風景や音、匂い、風は流れていき、それにつられて思考や記憶が垂れていく。歩きさえすれば脳を活性させる材料はいくらでも環境が与えてくれるので、楽だ。歩くとなぜだか頭のなかにほどよい隙間できるので、思いや考えは歩行のリズムに揺られて勝手に転がる。ただただ転がし続けるのも楽しいし、転がることである程度丸まって形になるというのもよい。散歩したときに考えたことをさらさらっと書くのがいちばん気持ちいいのかもしれない。

 

しかし散歩のように書こうと思うと、とたんに難しくなる。通常、書くことは歩くことであると同時に道をつくることでもあるからだと思う。たいていの場合、人は“伝えたいこと”があるから“書く”のだ。それは散歩ではなく冒険だから、俺のように目的も胆力もない人間にはとうていできない。そう、俺には目的がない(胆力はひとまず置いておこう)。

 

とここまで書くことを散歩になぞらえてなんとなく書き進めてみたけれども、しかし、比喩は難しいなと思う。比喩こそが文章力、比喩を使えるということが人間を人間たらしめる、とまで言ってしまう人もいるけれど、そんな風にたらしめられた人間は良いものなんだろうか。人間の世界への認識は比喩を通じて豊かになるんだろうか。よくわからない。

こんなことを言っているのも、自分が比喩を使うことに苦手意識があるからなんだよな。比喩を巧みに使えていたら、多用するに決まっている。

 

人は、苦手なことについて考えているときにこそ、思考が活性化するのかもしれないな。ちょうど、台風で割れた窓ガラスの破片が、寒月の光を反射したときのように。

直前の一文はデタラメです。

 

 

苦手について徹底的に考えたことがない。苦手克服を試みた経験がない。苦手はいつも避けてきた。

 

ストロングポイントがあるならば、苦手を凌駕するくらいにそこを伸ばしつづければいいのだろうけど、俺のストロングポイントを俺は知らない(そんなものないのかもしれない。でも人間28年も生きてしまえば、見つけてないだけで、何かしらあるはずだと思う、思いたい)。まあ現在のところは自分の長所をよく知らないので、苦手を克服することを考えて、思考をドライブさせよう。

 

俺の苦手のひとつには、《自分の思考を進めるための文章を書く》ということがある。大森靖子で言うところの《真実と向き合うときの言語》をまったく使えない。だからそろそろそこにちゃんとチャレンジしたい。言葉を使ってしか考えることのできない俺は、まずは言葉にこだわっていくことでしか、この胸のつかえを解消できないような気がする。このつかえを言葉でとらえきりたい。

 

 

明日も早いというのに、ここまで書くのに2時間近くかかってしまった。俺は書くのがとても遅い。だから、週刊誌の入稿にはとても苦労している。遅筆は治らないと思う。だからせめて丁寧だけは心がけたいのに、凡ミスもほんとうに多い。ぼうっとしているのだ。心ここに在らず、という時間が人よりも長い気がする。人の実際のところはわからないけど、なんとなくそう感じる。

妻や娘といる俺がとても素敵なのは、心ここに在らずの時間が少ないからだ。妻との穏やかな時間は俺を現在に留めてくれるし、娘のかわいさは俺に自己を忘れさせてくれる。《自己を忘れる》は《心ここに在らず》と近いような感じがしてしまうけど真逆だ。俺の言う《自己を忘れる》は没頭に近い、その瞬間、そのことしか考えられないというもの。娘かわいい。娘かわいい。まつ毛長い。瞳が淀みない。体を縁取る曲線が優しい。髪の毛が長く黒くアレンジしがいもあって楽しい。笑顔が最高。泣いているとき口にできている彼女にしては大きな空洞は泣き声を響かせるのに最適化されているように思えてその健気さがかわいい。丸い輪郭にあってちょこんと飛び出た小さな顎がキュート。パーフェクトに左右対称のガニ股とそこに作られるこれまた左右対称のシワが間もない生の純潔を象徴していて尊い。日に日に力を増していく小さく温かい手が頼もしい。そんな風にどんどん思いついていくばかりで、ほとんどなにも考えられなくなる。その時間は《心ここに在らず》でなく《没頭》そのもの。俺がこの人生においてほとんど経験したことのない没頭先がすぐそばにあることのしあわせ。

妻を妻にしたいと俺が思ったのは、彼女が人間として尊い(たっとい)のはもちろんのこと、彼女と過ごす時間の俺が《俺》から離れられているなと実感することが多かったからだ。「自然体でいられる」と言ったらそれまでだし、なんだかとてもつまらないけど、ありていに言えばそういうこと。自意識から離れられるのがとても心地よい。それは日常の会話やくつろいだ時間においてもそうだし、セックスのときもそう。妻とのセックスに俺は没頭している、それに気づいたとき、この人とずっと一緒にいるはずだと思った。

その選択はおおむね間違っていない。おおむね、と書いておくのは、俺はこの心地よさに甘えすぎてる節があるから。もう少しかっこつけもあっていい気がする。メリハリは大事だ。鼻くそをほじるのが当たり前になってはいけない。

 

 

ここまでで2200字ちょっと。大森(靖子)さんは学生の頃毎日3000字書くのを日課にしていたと聞いた。それくらいの量を書き続けないと《真実と向き合うときの言語》は獲得できないのか、と思い知らされたので、だらだらと書き始めてみたのだけれど、とても難しいな。もう4時になってしまった。

 

明かりの消えた真っ暗の和室、布団に仰向けで横たわり、スマホでこれを書いている。すぐ隣で生後3ヶ月半の娘が寝ている。娘専用の布団もあるのだけれど、自分の布団の上で腕枕をしてやって寝かしつけてしまっているので、けっきょくいつも同じ布団の上に寝てしまうのだ。妻は寝室で寝ている。夜は俺が娘のそばにいるというのが習慣になっている。産後の妻にはよく寝てもらいたいと思ってこのスタイルになった。トイレに起きた妻がついでに和室を覗くと俺とあかんぼうが並んで寝ていてかわいい、という。俺もその光景を見たいなと思う。ちゃんと微笑ましいといいな。

今夜は涼しそうだったので、1時間くらい前までエアコンを止めていたが、やはり暑かったのでつけた。外は涼しいのに、家のなかは湿気がこもっていて、ちょっと暑い。暑い季節が早く終わってほしい。秋が恋しい。家族がいても、秋は寂しくなるんだろうな。その寂しさが恋しい。

低気圧は気だるくさせるし、秋は寂しくなる。冬は気が塞ぐし、春は花粉に苛立つし、夏はだるい。われわれの感情は天候に大いに左右される。そんなことの繰り返しで人生は終わっていく。そういえば今日は人生が終わることについて何度か考えてしまった。録画してあった「ドキュメント72時間」で秋田の湯治場を見たのと、がん保険の案内に軽く目を通したのと、テレビブロス星野源細野晴臣が死ぬことについて話しているのを読んだのと、ツイッターで知らない人の訃報に2,3触れたから。

死にたいわけじゃないけど、死ぬのが怖いという感覚もいまはあんまりないな。なんでだろう。明日はそのことについて考えてみようかな。