ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

風が強い

今年の春は風が強いように感じるが、昨秋引っ越してきたこの土地が風の通り道として優れているからそう感じるのか、それとも東京でも風は吹き荒れているのかがいまひとつわからない。天気予報はたしかに「風に注意」とばかり言うが、東京の風もこれくらい強いのだろうか。わからない。

この町を気にいったのは風がよかったからだ。昨夏はじめて来たとき、海へとつづく一本道を吹き抜ける風がとても気持ちよくてここに住んでもいいかもしれないと思ったのだが、いざ秋に越してみると、その風は体感温度を下げ私たち夫婦の体と心をひどく強張らせた。やっと冬を越し春が来たが、今度は「春の嵐」というやつがおそろしく響く。夜半を過ぎた先ほどから、風が急に強くなりはじめた。木造アパートは風に揺れる。鳴る風を聞いてると、波を越えていく船のなかにいるような気がしてくる。そういえば、去年まで住んでいたワンルームは鉄筋コンクリート造だったからだろうか、風の音が気になったことはなかった。

 

二週間ほど前、通りを挟んで二軒隣の家が全焼した。通りは車一台が余裕を持って通れるほどの幅だから、火事は私たちの部屋から10メートルほど先のできごとだった。寝室の窓から様子を眺めていたが、やがて白煙は窓を覆い、視界はなくなった。あの日、今日くらいの風が吹いていたら、この部屋も燃えていたかもしれない。その日の前後は今日のような強風の日も多かった。不幸中の幸い、という言葉を妻との間で使っていたが、燃え盛る我が家を泣きながら眺める女性の姿のせいで、そのような物言いをした自分を少しだけ後ろめたく思った。二時間ほど燃えただろうか、鎮火した後にはあたり一帯に焦げた匂いが残り、私たちの部屋のなかに吊るされた服にも、その匂いはこびりついた。

 

ウエルベック『プラットフォーム』を読んだ。突然失われる未来を見せつけられ慄然とする。人は何を語っていても、どんなに先進的に生きて(いるつもりで)も、享楽をむさぼって満足しても、一瞬後には肉塊になるかもしれず、というか一瞬で肉塊になれたならまだ幸せなほうで、手足がもがれ苦痛に叫んだり、肉塊と化した愛する人を抱かざるをえないという劇的な瞬間が誰にでも起こりうる。それがテロの時代であるし、日本だったら地震や台風であろうし、いま私たちが住む海辺の街だったら津波かもしれない。

 

あの火事の日、火の手が通りを越えなくて本当によかった。風のない日でよかった。「よかった」は自分のたちの身に火の粉が降りかからなくてよかったであり、燃えおちた家の住人たちと私たちはこの「よかった」によって完全に分断される。

風は分断を吹き抜ける、あなたの耳にもこの強い風の音が聞こえているだろうか。