ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

推すということ 「リトル・ミス・サンシャイン』と『マジカル肉じゃがファミリーツアー』を見て思ったこと

リトル・ミス・サンシャイン』を見た。ミスコン「リトル・ミス・サンシャイン」の予選を通過した少女オリーヴを、決勝大会が開かれるカリフォルニア州のとあるホテルに送り届ける家族のロードムービー。この旅を通して、バラバラだった家族の気持ちは少しずつひとつになっていく、みたいな話。

クライマックスはもちろんオリーヴのミスコン審査場面だ。道中オーバードーズで死んだおじいちゃん直伝の卑猥なダンスで、オリーヴは由緒あるミスコンの雰囲気をぶち壊していく。そのとき、オリーヴの家族はステージ上の彼女を、客席から猛烈に応援する。それどころか、ステージに上がって一緒に踊りだす。オリーヴのダンスによって凍りついてしまった会場の雰囲気を打ち破り、娘であり妹であり姪っ子であるところのオリーヴを守るため、家族は団結してステージで道化を演じる。

 

このシーンに、「推す」という行為の本質の一端を垣間見た気がした。

 

男性陣はオリーヴがパフォーマンスする前、他の出演者たちを見てオリーヴは絶対に勝てない、それどころか笑い者になる、と青ざめて、オリーヴの出演を止めようとする。しかし母親は納得しない。オリーヴを絶対にステージに上げるという。そして彼女はとうとうステージに登場する。

男性陣の予想通り、ちんちくりんなオリーヴの「卑猥なダンス」は会場の顰蹙をかう。退席する観客も続出する。それでも、大好きなおじいちゃんが自分に遺してくれた振付をオリーヴは踊りつづける。彼女のひたむきなパフォーマンスに家族は胸を打たれ、彼女を必死で応援し、終いにはステージに上がって、一緒に踊りだす。

 

オリーヴの家族がやっていることは、アイドルを推すファンたちと同じように見えた。周りがどんなに非難しても、わたしたちはあなたを支えます、推します。そういう(理想的な)アイドルヲタの心境が『リトル・ミス・サンシャイン』では具現化されているように思えた。

 

ぼくが『リトル・ミス・サンシャイン』を見たのは、ロロの『マジカル肉じゃがファミリーツアー』は『リトル・ミス・サンシャイン』っぽいかも、という感想文を読んだからだ。

たしかにぽい部分があった。のど自慢大会に出たお母さんにお父さんが拍手を送り、周りの観客(ぬいぐるみ)たちにも声援を送るよう促しているところだ。

どちらの作品でも、下手くそなパフォーマーに対して多数の観客はそっぽを向いてしまう。それでも家族はパフォーマーに声援を送る、推しつづける。

 

さいきん、観客と演者、ファンとアイドル(いわゆるアイドルだけでなく)について考えてしまう。もちろんぼくは観客やファンの立場としてしか、この関係性を考えることはできない。演者/アイドルにとって理想的な観客/ファンとは一体どんな存在だろうか。その答えのひとつが、『リトル』の家族と『マジ肉』のお父さんだと思った。そのパフォーマンスの出来とは関係なく(まったく関係ないということもないだろうけど)、そのひたむきさゆえに推す。この2作において推す理由は「家族だから」という一点に尽きる。でもニワトリタマゴな話でもあって、そういうひたむきさを愛してしまったから、彼らは家族になったという見方もできるかもしれない。

 

ぼくは、あなたがたがひたむきである限りにおいては、あなたがたを推しつづけるだろう。

ぼくも、ひたむきでありさえすれば、誰かに推してもらえるのかもしれない。