ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

美しいぼく

ぼくはずっと不幸を知りたかったのだと思う。だからニートになったのだろう。でも、それが偽りの不幸だとしても、アナグラにいちど落ちると、這い上がるのはなかなか難しい。そこは暗くて孤独でつらかった。ぼくはたまたま書くことで誰かと繋がれて、その先には結婚まであった。ラッキーだ。今はもう、ただただしあわせが継続することを祈りつつ、PCを凝視し、指を動かしつづけている。

「世の中はくそったれ」らしい。ぼくにはそのことがよく分からない。このブログで何回か「世の中はクソだ」的な物言いをしたことがあるけれども、それは本心ではなかった。いや、瞬間的には思ってたのかもしれない。でも、ぼくは絶望を知らない。誰かが世界に向けるくそったれの嘆きをなぞっていただけだ。

不幸を経由しないと、高みに登ることができないと錯覚していた。
中流家庭集団のトップに位置する家庭でぬくぬくと育ててもらい、なんとなく上京して大学に通い、テキトーにスクールライフをうっちゃってる自分が心底イヤだった。不幸を知らないぼくが、自傷的にニートになったというのが、これまで人生に対するひとつの視点だ(そもそもニートという選択がぬるいということにも、当時のぼくは気づいてなかった)。
もちろん、他の視点もある。けれども、そんなことはもういちいち書かない。問題はいつだって複合的で、だから立ち止まったぼくらは問題をためつすがめつし、それをぐるぐる周回してしまう。でも、大抵の場合は問題から離れてしまった方がラクになれる。そのとき軽い気持ちで振り返ってみれば、岩山は全体像を明らかにする。そうだ、問題は岩山のようなもんだ。ハナっから登れるわけない山を眺めて、どうやって征服すればいいんだ、と懊悩する時間とたわむれていたにすぎない。もちろん、登れる人間もいるんだろうが、ごく限られた人間だけだ。
ニートだったころの自分をかんたんに思い出せる現在地よりも、もっと遠くに行くまで、あのころのことなんか振り返るべきではないのだ。時間もないのだし。高く登ることだけが価値じゃない。

 

ぼくには世の中がくそったれだという意味がよく分からない。社会はたしかにくそったれなのかもしれない。いろんな酷いことが起きている。でもそれはニュースの話で、ぼくのリアルはぜんぜん汚染されていない。
社会なんてクソみたいなもん肥料にして、世界はもっと咲きほこっているように思える。平和ボケなんだろうか。

ぼくは27歳なのに、いまだに社会をよく知らない。いままでそれをコンプレックスに思っていたけど、たぶん幸運なことなのだ。幸運はこれ以上はつづかないのかもしれない。ぼくはこれから、クソを見ることになるのかもしれない。
まあ、そのときはナイーブに嘆いてみせよう。そのためにも、いまのこの肺を清く保っておきたい。何も自らすすんで粉塵を吸いこむ必要はないのだ。ぼくは美しい。

 

そういう気分なんです。