ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

正月とおじさんとクロちゃんのこと

年末年始を実家から遠く離れたところで過ごすのは初めてだ。去年は大森靖子のカウントダウンライブに行ったので、年越しの瞬間は東京にいた。でも1月2日には沖縄の実家に行ったので、東京で年末年始を過ごしたという気分にはならなかった。

今年は妻とふたり、東京から少し離れたアパートで年末年始を過ごしている。猫もいる。

人生ではじめて年越しそばを食べた。沖縄にいるころは、沖縄そばを「年越しそば」と呼んで食べていたのだけれども、今年はそば粉でできたそばを啜った。沖縄そばよりも啜りやすくて、「麺を途中で噛みちぎっちゃダメ」という教えを守りやすかった。沖縄そばは太いので麺の半ばで噛みちぎりたくなる。

妻はお雑煮も作ってくれた。濃い味でとてもうまかった。

 

コンビニに行こうと家を出たら、いつもより上手なピアノの音色が聞こえてきた。どこかの家に、いつもピアノを弾いてる少女よりも、おねえさんのピアニストがやってきたのだろう。きっと、その家の少女はいとこのおねえさんに憧れてピアノを始めた。一年に一度、会うお姉ちゃんの音色を追いかけて、少女はピアノを毎日弾き続けているんだろう。昼間、家の中で過ごしていると聞こえてくる拙いピアノの音色が、いっそう愛おしくなる。

 

コンビニでは若い男が4人して酒を物色していた。「そんなに飲まねえよ、明日おばあちゃん家行くんだよ」と言っている男がひとりいる。きっと大学生の彼らは、ふだんはちりぢりで、今日は近況報告しながら酒を飲むんだろう。

 

今日は焼肉を食べに行った。寝正月なので、久しぶりに外気に触れると、とても清々しい。焼肉屋はにぎわっていた。近くのテーブルではどこかのプロチームに入団が決まったサッカー選手がいた。マネジメントはどこの会社なのかとか、マレーシアでは月給200万円もらえるらしいとか、なんだか具体的な話をしていた。

 

正月早々、「メンヘラおじさん」について考えなくてはいけなくて、少し気が滅入る。手はじめに鈴木涼美『おじさんメモリアル』をパラパラと読んでいたら、暗澹たる気持ちになる。


「性と愛を混同して病む男」とか「顔が若干よかろうが脂ぎっていなかろうが禿げていなかろうが、等しくオヤジはオヤジであり、オヤジはオカネである」、「おじさんの『俺が女にしてあげる』癖はひどくなる一方だった」などなど、キラーフレーズが満載。
僕もすぐにおじさんになる、というか、メンタリティーはわりとおじさん寄りだと思う。


結婚してよかったことはたくさんあるんだけど、そのうちのひとつに「恋愛から降りられてよかった」というのがある。もう僕は妻以外の人間と恋愛しなくていいのだと気づいたとき、とてもラクになれた。
不特定多数の女性により良く見られたい、つまり「モテたい」と思って空回りしなくて済むのだ。別にモテるために努力したことはないけど、女性と相対するときはやっぱり変に意識してしまって、気の利いたこと言わなきゃとか思ってしまったものだが(言えた試しがないのに)、これからはそんなことを一切気にしないで生きられるのだ。


年末「水曜日のダウンタウン」の「フューチャークロちゃん」に笑いながら「これは俺のことだ」と思った男性は少なくないはずだ。
ヒコさんはかつて「クロちゃんの”歪さ”に対して、何かこう根源的なシンパシーのようなものを覚えてしまったのだ。だって、私も貴方も、ああならないとは言い切れない」と書いていた。

すごくよくわかる。クロちゃんは《男》の業を煮詰めて固めた結晶体だ。
僕に小金があったら、クロちゃんみたいにバカラのグラスをプレゼントしていただろう。
この歳だから間接キスに対してなんの思い入れもないが、小学生のころはやはりあの娘の「リコーダー」に対して欲情の萌芽を感じた。
クロちゃんの嘘ツイートのように、いつだって自分のことを実際より少し良く見せたいと思ってしまう。

クロちゃんがすべてをさらけ出してくれるおかげで、僕らは凡人は救われているのだと思う。
レイちゃまにフラれたあと、タクシーの後部座席でうなだれるクロちゃんの姿に、『マスター・オブ・ゼロ』のデフを重ねてしまってグッときた。

 

なんだか、おじさんの話をしてしまったがために、書きはじめたときの目論見とは違うところに文章が進んでしまった。

あけましておめでとうございます、今年もよろしくお願いいたします。