ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

『アウトレイジ 最終章』見たよ

アウトレイジ 最終章』ようやく見た。『龍三と七人の子分たち』がまったくハマらなかったので期待しないようにしてたけど、おもしろかった。

 

ありきたりなヤクザの内輪揉めを軸にしたストーリーに韓国人フィクサーを絡めつつ、北野武作品らしい主人公・大友の生き様(=死に様)を通奏低音として描く。ストーリーには何ひとつ意外性はなく、ひたすら安心して見られる。これは北野武の意図したところだと思う。アウトレイジ・シリーズおなじみの残忍な殺しのバリエーションも言葉が過剰で意味をなさない罵り合いもここにはない。権謀術数というにはあまりにも地味でチープな策略が繰り広げられるだけ。そのケチ臭い権力闘争の最中でひとり、金でも力でもなく自分なりの仁義にのっとって大友は動き続ける。しかし金にも力にも興味がないからといって大友は決して良いヤツなんかではない。自分を律しているわけではなく、ただ関心がないだけだ。

北野武も大友のことを「馬鹿」と評していたけどその通りで、大友は仁義にあついヒーローでは決してない。たまたま金にも権力にも興味のない「友」の感情を欲望するケダモノでしかない。友のために敵を殺す。友のためなら、友の感情や利害はどうだってよくなるのが大友だ。馬鹿正直にスジを通すことだけを欲望するのが大友。彼の唯一良いところは、自分が馬鹿だったことを理解しているところで、だからせめてものケジメとして、大友はためらいなく最期の引き金を引く。

 

ソナチネ』を思い出させるホテル襲撃(『キングスマン』!)や牧歌的なのに死の匂い立ち込める海のシークエンス、『BROTHER』の「ファッキンジャップぐらいわかるよ、バカヤロー」を思い出す塩見三省の悪態なんかは、北野武作品を見てきたからこそ喜べるサービスみたいなもんだと思った。楽しいし嬉しいけど、新しさはない。

 

この映画で北野武はことさらに新しいことをしようなんて考えてなかったように思う。斬新さや突飛さで観客を驚かせるよりも、観客をもてなしてやろうくらいの気持ちで撮っちゃったのではないか。俺はそれをすごいことだと思う。

 

テレビでも映画でも名声を手に入れ、しかし確実に老い、どちらのフィールドでも全盛期のようなパフォーマンスはできなくなった今、彼がやることは観客の欲望に寄り添うことだった。それはアウトレイジがシリーズ化されたことからも明らかだった。売れなきゃしょうがないと開き直って、自分にできる範囲(その範囲がめちゃくちゃ広いのだが)でエンタメ作品を撮り、その中でもチラチラとアーティストとしての感性の片鱗を見せる。このバランス感覚が並大抵ではない。

 

アスファルトやその上を走る黒塗りの車に照り返る済州島のネオンがめちゃくちゃ美しい。僕の記憶の中では、あんなに夜が美しく感じられたのは、北野映画では初めて。暗闇でしか光は輝かないのだと思った。

今の北野武は、場末のネオンのような諦念と開き直りの美しさをたたえていると思う。

 

 

横須賀の映画館で見たんだけど、上映中ごく当たり前に間延びしたケータイの着信音が聞こえ、男が普通に電話に出て会話しながら外に出たことまで含めて、最高のアウトレイジ体験でした。戻ってきた男のシルエットがスクリーンを横切った。