ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

『パターソン』感想文

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SHADES BAR、この店構えだけで完全勝利だった。ジム・ジャームッシュ『パターソン』はタイトル通りパターソンという名を持つ町と男が主役。

ニュージャージー州はパターソン、秋の町を路線バスが走る。運転手の名もパターソン(アダム・ドライバー)。「おかしな名前ね」と言われ、人生何百回目かの苦笑を浮かべる。生まれた町の名前を両親に付けられたのだろうか。

男は毎日バスを走らせながら、休憩時間などにはノートブックに詩を書き連ねる。彼はバスの運転手であり、詩人でもある。スマートフォンはもちろん、ケータイもパソコンも持たない彼はペンを走らせる。「縛られるような気がするから……」と言ってスマートフォンを持たないパターソンはしかし、パターソンの町中をバスでぐるぐる回っている。パターソンは、パターソンの町に縛られてる、と言ってはあまりに悲観的すぎるか?この映画にそういった悲愴は表立って描かれていない。

 

毎朝6時15分前後に自然と目を覚まし、隣で眠る妻にキスをして、ひとりベッドから立ち上がり、ダイニングで不味そうなシリアルを食べて出勤する。毎日毎日。
乗客の会話に耳を傾けながらバスを走らせる。昼食を取ったり詩作に耽ったり場所は、グレートフォールズを正面に望むベンチだ。このグレートフォールズ、産業革命の象徴らしい。落差23メートルの滝の威力が当時の産業を推進した。映画では多分そのことは特段語られてなかった。雄大な滝を前にして綴られる詩は、気に入ってるマッチのことや妻・ローラのことだったりする。
仕事が引けたらまっすぐ家に帰る。妻の作った飯を食う。エキセントリックでエキゾチックな彼女の作ったチーズと芽キャベツのパイ包みがまずいけど、パターソンは水で流し込んで食べてやる。不満は言わない。妻を悲しませることに勝る罪悪はこの世にないかのように彼は振る舞う。妻がギターが欲しいと言ったら本当は家計がきついのに「いいよ」と言ってしまう。ローラはカントリー歌手になってデビューできるかも、ナッシュビルに行けるかも、とか言ってる。自分にはもしかしたらとんでもない音楽の才能があるかも、とか言っちゃう。ローラはちょっと飛んじゃってる。パターソンが仕事に出ている間、彼女は部屋の白地の壁やカーテンに黒いペンキで円を描いている。ローラは白黒映画が好きだという。ダイニングにいるパターソンの背後には青や黄色に塗られた壁がある。パターソンがバスを走らせ、マーヴィンを連れて(連れられて?)歩く町にも季節の、町の色彩は生きている。パターソンはローラの描く白黒の世界の円環から逃れたいのか?別にそんな切迫感もここでは特段描かれてはいない。


夕食の後、パターソンは飼い犬・マーヴィンを散歩させる。で、冒頭に掲げた“SHADES BAR”に入って一杯ひっかけて帰る。ローラは散歩から帰ってきたパターソンから漂うほのかなビールの匂いを気に入っている。
こんなルーティンを毎日繰り返している。いつからだか分からない。来る日も来る日もバスを走らせ、風変わりな妻と過ごし、ビールを飲んで寝る。

パターソンは「淡々とした日常」を描いているわりに不穏な劇伴が流れる。アダム・ドライバー演じるパターソンの心はあんな感じなんだろうか。言葉になる前の、わだかまりがなんとなくある。それを詩に表したいのだろうか。愛する妻の作るまずいパイを飲みこむ優しい彼が持つ詩情は実はあのグレートフォールズのようにたぎっているんだろうに、彼はそれをまだ形にできていない。
ローラは彼の詩を褒めるけれど、自分の詩に何かが足りないと彼自身がいちばん良くわかっている。偶然出会った少女の詩に心打たれ、その詩を覚えてしまう。自分にはない何かを感知している。彼は詩を愛するがゆえに、自分の詩が大した代物ではないことも知っている。
でも、パターソンは詩を読むのと同じくらい詩を書くことが好きだ。だから、彼は誰に読ませるためでもなく、詩で名を馳せようとするのでもなく、淡々と、言葉で白紙を埋めていく。詩を訥々と読み上げるアダム・ドライバーの声がたまらなく素敵。いかなる抑揚も排除して、綴られた文字をしっかり口に出すことだけに腐心している。この凡庸さが美しい。

 

クライマックスはパターソンのノートブックに刻まれた詩たちが永遠に失われてしまうところだ。失われた事実を前にパターソンはかなり動揺する。歌ってあげようか?というローラの斜め上な慰め方は観客にとっては笑えるけど、今回ばかりはそのチャーミングさもパターソンを慰めない。その後どうなるかってのは映画を見てほしい。

 

『パターソン』の魅力をどう言ったら良いのかわからなくて長々とあらすじを書いてしまった。この映画に出てくるあらゆる詩の価値とか良さってのは俺にはよく分からない。覚えてる一編とかもない。でも冒頭の“SHADES BAR”の店構えや店主ドクの佇まい、パターソンとローラの寝室、アップで捉えられたアダム・ドライバーの愛おしいはにかみ、交差点を曲がるバス、帰宅たびに傾ぐポスト、毎日現れる様々な双子、グレートフォールズの雄大……そういう光景の断片たちが脳裏に刻まれていることを思い出すと、心が満ち足りる。

 

この映画は「淡々とした日常の美しさ」みたいなのとはちょっと違うと思う。「淡々とした日常」に倦み、時にいらだつ我々も、詩的なまなざしを持つことでこれくらいの日常の鮮やかさを取り戻せるかもしれないという希望と、希望を守るためのささやかな苦闘がここにはあるように思えた。この映画の底流では常に日常の取り戻さんとする意志がたぎっていて、それがパターソンという町や男に深みを与えているのかもしれない。

 

失われてしまった町の活気。パターソンという町には多くのシリア移民がいるらしい (http://www.sankei.com/world/news/170527/wor1705270065-n1.html)。とあるサイトでこの町は全米で危険な町ベスト25にランクインしているのを見かけた。ニューヨークからそう遠くはないこの町も、かつては賑わっていたのだろう。あのグレートフォールズの力を借りて、人々は未来に邁進していたのだろう。しかし、あらゆるものは押し流されていく。諸行無常。だから人は書くし、読む。忘れないために書き、思い出すために読む。書き、読むためには、まなざしが必要だ。そのまなざしを『パターソン』は与えてくれる。