ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

焦り

今日は大森靖子kitixxxgaiaツアーファイナルのため、Zepp DiverCityに行く。6月2日に仙台rensaでツアーが始まって早1ヶ月半。この間、個人的に色々あったような気がする。

 

大森靖子を知って4年、どっぷりハマってから3年が経ったけど、その間の俺は日常生活が全然きちんとしていなかった……というか、誤魔化さずにいえばニートだった俺は、ライブに行っても罪悪感を拭えなかった。日常で感じる喜怒哀楽を発散させたり増幅させたりするのが《ライブ=ハレ》だから、日常が無だったあの頃は、大森さんの「明日もがんばりましょう」と言う言葉を聞いても、「明日も俺は変わらないし変われないんだろうな」と落ち込んでいた。こんなにドンピシャでハマる表現に出会えたのに、俺は自分がしっかりしていないから、それをてんで受け止められない。それが情けなかった。


ライブ中も大森さんの歌を聴きながら、大森さんはこんなにがんばっているのに、ファンの人たちは日常を頑張った末にここに来ているのに、俺はいったい何をやっているんだろうと下唇を噛みながら考えてしまい、ライブを脳みそに叩き込めなかった。

 

今年になって、いろいろな人の助けがあり、ようやく少しずつお金を稼げるようになった。とはいえ俺はまだ自分を養うこともできてないし、やはりその稼ぎは自分が能動的に動いた結果ではなく、周りの方のご厚意あってのもの。俺は回してもらった業務を粛々とこなしているだけだ。多分ほんとは何にも変わってない。でも、俺でも労働によって金をもらえるんだ、と知れたことは、多少の自信につながった。俺は働くのがイヤなのではなく、就活が向いてなかったんだと気づけた。それがここ10ヶ月くらいのこと。

 

そうやって、光のように過ぎて行く日々とちんたらと進む自分の歩みを比べて焦りもする。しかし、日常が無だったころは焦ることすらなかった。いつかどうにかなるはずと思って、日々を漫然とやり過ごしていた。
今は焦っている。どうにかしなきゃならないと思っている。より良い生活を手に入れたい、そのために金を稼がなくてはならないと気づいた。どうやって稼げばいいのかはまだ分からないが。少なくとも焦りはある。

 

今にして思えば、日常が無だった時の俺は、大森さんのライブを見て聞いてる時間、そしてその帰り道くらいでしか焦りを感じていなかった。俺もどうにかしなきゃいけない、このままじゃダメだ、と思えていた。しかしどうにかするための手段がまったく分からないし、気力も体力もなかった。だから焦りは持続することもなかった。
ただ、あの頃に少しずつ蓄積した焦りが積もって、今の俺につながっているのだと思う。だからあの時間は無駄ではなかった。そして俺はあの時間が無駄ではなかったと証明するためにも焦りつづけなくてはならない。

 

大森さんがツアーをしていた1ヶ月半、俺は自分のことを心底必要としてくれている人の存在を知った。自分のために頑張ることがひいては彼女のために頑張ることになる、そういう幸福な状態に今の俺はいる。

今日のライブは俺にとってもハレの日で、明日からまたがんばろうと思える活力になる。