島本理生「リトル・バイ・リトル」感想文
著者20歳のときの小説。
橘家は母とふたりの異父姉妹、8歳のユウちゃんと浪人中のふみ(「私」)の3人暮らしだ。もっといえばペットのモルモットがいて3人+1匹の生活だったが、こいつは途中で死んでしまう。
ふみの通う書道教室の柳先生の妻も死んでしまう。彼女はバスに乗ってる間に事切れて、誰にも気づかれないまましばらくのあいだバスに揺られた。
死があっても、それを受け止める人々はわりに淡々としている。死んだモルモットを庭に埋めたあと、幼いユウちゃんは「バイバイ」と言って手を振るがこのあとは特に気にするでもないし、妻に死なれて間もない柳先生もきちんと自分でご飯を作って食べ、すぐに教室を再開する。遺された者は死をただ受け止めるしかない。いつまでも泣いてたってしょうがない。遺された者たちは日常に戻らなくてはならないし、戻っていくものだ。
一方で、ふみは自分に暴力をふるった父のことが忘れられない。酒に溺れ、家族に暴力をふるい、家族の元から去った父ともしばらくは毎年の誕生日に会っていたけれど、6年前のその日、父はいつもの待ち合わせ場所に来なかった。そのわけを6年経ってようやく母が話したのは、ふみが周と出会い恋に落ちたからだ。
母の働く治療院で出会ったふたり。ボクシングをしているという周にふみは試合に行ってもいいか? と思わず尋ねる。
周がボクシングを始めたのは中学の卒業式にケンカで負けたからだ。彼の姉からそんな昔話を聞かされたふみは納得する。なぜか。
ふみが父から振るわれた暴力を知った周は憤った。ふみに「私のことは殴れる?」と聞かれた周は「頼まれても、それだけはしません」と言う。
「俺、ケンカはあんまりしないから分からないけど、練習中に気持ちが妙な盛り上がり方をするときはありますよ。たぶん、男って多かれ少なかれ、そういう衝動はみんな持ってるんじゃないかな」と言いながらもふみのことは絶対に殴らないと誓った周を、彼女は信じた。周は暴力的だからボクシングにのめり込んだのではない、彼は中学生最後の日に自分を打ち負かした暴力と、自身の内側から湧き上がる暴力への衝動を克服するためにボクシングに励んだ。
そういう男に惚れたふみを見たから、母は6年前に彼女の父が姿を見せなかったワケを話したのだろう。
未だに父に期待していたふみに、ろくでなしの父のことを洗いざらい話してしまっても、絶望しないと踏んだ。ふみの父はたしかにどこかで生きているのだろうが、ふみの求める「父」はとっくに死んでいたのだ。周と出会ったふみはその事実を受け止められる、そう信じたから母は娘に真実を話した。
「あの人はダメだよ。分かってるでしょう。ふみちゃんが期待するような人間性は、もうあの人の中で壊死してるも同然なんだよ。それにたった一度だって正当な理由もなく家族に手をあげるなんて、すること自体がおかしいんだよ。あの人のそばにいたら、たぶん私たちは死ぬまでそういう生活だったよ」
2本目のタバコを吸いながら、母はそう言った。
「リトル・バイ・リトル」は、遺された者たちの物語だ。モルモットに死なれたユウちゃん(をはじめとした橘家)、妻に先立たれた柳先生、「父」を失ったふみ、しかし彼らには支えがある。救いがある。大切な人を失っても我々は生きなくてはならない。すぐに立ち直れる人もいれば、少しずつ現実を受け止めていく人もいる。しかしどちらの人間にも踏み出しはじめの一歩がたしかにあった。
「ふみ」は「踏」であり「書」だろう。
柳先生の「どんな言葉にも言ってしまうと魂が宿るんだよ。言霊って言うのは嘘じゃない。書道だって同じことで、書いた瞬間から言葉の力は紙の上で生きてくる。そして、書いた本人にもちゃんと影響するんだよ」という言葉が印象的だ。
一方で「いろんなことが全部、何もかも。翌朝のバイトとか人込みとか、することがない平日や、眠る前とか」が怖いと言うふみに周がかけた言葉は強烈なカウンターパンチとして効いている。
「『俺とか』に『毎回怖いって思うたびに、そう言えばいいじゃないですか』」。
どちらも真実である。ふたりの男が語るふたつの真実を弱冠20歳で小説という形にした島本理生に感嘆する。怖いと口にすることで形を得た恐怖は生々しく人を襲ってくる。それでも、言葉を与え恐怖を形にしないと人はそれに立ち向かうことができない。そして、言葉は聞いてくれる人を必要とする、ひとりではできないことだ。ふみには周がいたからかろうじてそれができた。
この「かろうじて」を爽やかに淡々と書いているところもこの小説の魅力だ。
文庫本には原田宗典の解説が載っていて、これがめちゃくちゃいいので、これだけでも読む価値があると思う。
林芙美子「小説というのは、どうやって書いたらよいのでしょうか?」