ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

『PARKS』(瀬田なつき 2017年)感想文

瀬田なつきは『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』、『5 windows』を見てとても好きになった監督だったので期待していたけど、『PARKS』は鑑賞中ほとんど興味を持てなかった。登場人物たちにはまったく共感できないし、もっと聞きたいと思った音楽もぶつ切りにされる。結局最後までなんのカタルシスも訪れない。“爽やかな”青春音楽映画だと思いこんで見に行ったのはこちらの失敗だったかもしれない。

メランコリックでメルヘンに狂ってる『みーまー』と、黄金町の川沿いを舞台に若者たちの過去と現在と未来が繋がってしまう群像劇(未満?)の『5 windows』の監督が、井の頭公園のなかで未完の音楽が過去と現在を紡ぐさまを撮った映画がおもしろくならないはずはないと思ったのに。この映画は観ているあいだほとんどおもしろがれなかった。

 

しかし見終わって何日か経った今、この映画に対して感じたいろいろな嫌な感じが不思議となくなっていることに気づく。なんならもういちど見てみようか、なんて思ってしまっている。

 

映画「PARKS パークス」予告 - YouTube 

 

死んだ父(盛岡龍)がかつて付き合っていた女性(石橋静河)を探している木下ハル(永野芽郁)は、大学生・吉永純(橋本愛)のマンションに押しかける。ハルの父が遺した写真に写る女性は、純の住むアパートのまさにその部屋のベランダから、井の頭公園に佇みカメラを掲げる彼に手を振っていた。

純はハルの父の「元カノ」探しを手伝う。困っていた卒論のテーマになるかもしれないという打算からだ。ハルも父と「元カノ」の恋の話を小説に書こうとしている。

しかし「元カノ」の孫である小田倉トキオ(染谷将太)が言うには彼女もつい先日死んでしまった。

遺品整理中にトキオが偶然見つけたオープンリールのテープ、そのなかに入っていたハルの父とトキオの祖母の歌声、途中までしか録音されなかったその曲のその先を、3人は自分たちで作り出そうとする。

 

角ばった輪郭に意地の悪そうな表情を浮かべる橋本愛(PARKS』の橋本愛がかわいいと言う人めちゃくちゃ多いけどまったく同意できない)。クローズアップになった永野芽郁のかわいらしい顔の片目は半分ほどの大きさに潰れている。染谷将太を含めた男女3人の会話はテンションが空回りしている(染谷くんのラップはよかったと思う)。

 

桜が舞い散り、美しい陽光に照らされる春の井の頭公園の佇まいとは対照的に、この映画に出てくる主人公ふたりの立ち居振る舞い(ハルと純)はー言葉を選ばなければー不快だった。

 

小田倉家を訪ねたハルと純がドンドンと扉を叩き窓から家のなかを覗き込むシーンにはその非常識さにゾッとするし、彼女らが井の頭公園のなかを走り回るのには必然性がまったくわからなくて、そこはかとない狂気すら感じる。20歳前後の女たちが無遠慮に人の家の敷地に入りこんだり公園を意味なく走るのは不可解だ。若い女が陽光のなか走りまわり、部屋のカーテンが風に揺れる、それだけで青春映画にはなるわけではないだろう。『ちはやふる』を観た僕には『PARKS』の「走り」と「風」はピンとこない。

彼女らの嬌声はキンキンと鼓膜を突き刺して耳障りだった。

 

 

卒論を提出できない純に対して教授(佐野史郎)が≪その曲とやらが完成したら、単位を認めてやろう≫といった趣旨のことを言うのだが、その生ぬるいやり取りを見て成蹊大学だいじょうぶか?と思った(とはいえ僕も卒論提出時にトラブって情けない失態を犯しているので純の不真面目さを責めることはできない……)。卒業生である総理大臣を揶揄するためかな?とか思ってしまった。

 

何をやっても中途半端な純は幼いころタレントとしてCMに出てブレイクしたが、その栄光も遠い過去。一方で、友人の理沙(長尾寧音)はモデルをしたりイラストを描いたりと多彩だから、純は彼女に嫉妬している。

その名前とは裏腹に、純は醜い人間だ。嫉妬と焦燥ゆえに理沙に対してつっけんどんだったり、ハルに八つ当たりしてしまうさまは、負の感情がとめどなくこぼれ出していて、ある意味リアルに人間的なのかもしれない。むしろそういう意味での「純」だったのかもしれない。純度の高い負の感情が噴出してしまっている。

クライマックスのライブシーンで突然挿入される純の内面描写は『アンダー・ザ・スキン 種の捕食』でのスカヨハによる「捕食シーン」を思い出した。自分の負の感情に喰われてしまう純は憐れだ。

 

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純は見ていて不愉快になるキャラクターだ。何もかも中途半端で、すぐにものごとを投げ出し、ぜんぶ人のせいにし、過去の栄光にすがっている(まるで僕のようだ、僕には過去の栄光すらないが)。ある映画研究家が純を「ツイてない」と表現していたが、彼女の現在のツイてなさなんて徹底的に「身から出たさび」でしかない(あんな女は彼氏にフラれて当然だと思う)。

 

純とハルは友情を育んだ(らしい)純の部屋で喧嘩別れしてしまうが、部屋を飛び出したハルが井の頭公園にいることを願った純は、3人で、いや、ハルの父とトキオの祖母を合わせた5人で作った「あの曲」を園内放送に乗せて歌う。そうしてこの映画はエンディングに向かってしまう。

突然訪れたハルは電車に乗ってひとり吉祥寺から突然離れ、純とトキオは東京のはずれにある公園に取り残される。

純の卒論やトキオの就職がどうなったのかもわからないし、ハルの小説は曲を完成させることによって完成したのかもわからない(突然の挿入される無機質な空間にいるハルが本を閉じるシーン、あれはこの映画のストーリーのほとんどがあの本のなかに書かれている、ということなのだろうか?)。

オープニングと同じようにまた季節は巡って純は自転車を漕いでいる。

 

井の頭公園100周年の2017年に公開された映画であるにもかかわらず、この映画はこの公園の1世紀を祝っているようには見えない。むしろ、戦争による木材不足で大量に木が伐採されたり、未解決に終わったバラバラ殺人事件の舞台であったり、いっしょに乗ったカップルは別れてしまうという噂のあるボートの浮かぶ、いわくつきの公園であることを思い出してしまうような、不穏な映画だった。

 

ハルは過去と現在に分け隔てなく存在してしまうが、似たような作品として黒沢清の『岸辺の旅』を思い出した。

 

映画『岸辺の旅』予告編 - YouTube

 

『岸辺の旅』でカットが変われば人が消えてしまうように、カットが変われば時間を飛び越えてしまうハルの存在。そういえば『岸辺の旅』のふたりも、『クリーピー』ほどではないがどこか通じ合えていないような不思議な空気感の夫婦だった。瀬田なつきにとっての公園は、黒沢清にとっての家庭と同じように不穏な場所なのではないか。そんな風に感じた。

どこにも行けない人間たちが立ち止まったり、空回ったり、むやみに駆け回る場所としての公園、そんな風に思える。

 

美しい青春音楽映画だと思い込んで見てしまったがゆえに観ている間は居心地が悪かったが、こうやって不穏な公園映画として捉え直してみると、再見してみたくなる不思議な映画だ。『PARKS』に吹いている風は不穏をはらんでいる。

再見したくなるからといって好きな映画ということにはならないけれど(むしろ嫌いだ)。

 

 

純のことが気にくわないのは同族嫌悪の感が強いので、つらい。