ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

死ぬ

ドン、と音がして少し走った後、「やっぱりぶつかったんだと思う」と言って車を止めるので、みんなで外に出ると、通り過ぎた夜のアスファルトの上にはやはり鳩が転がっていた。あーあ、とうつむいた後ですぐに母は車に戻り、靴の空き箱を助手席から持ってきて、鳩をその中に入れた。鳩は車のフロントガラスにぶつかったらしい。人気のない夜の農道でのことだった。

 

そのとき彼女は僕の家で遊んでいた友人を彼の家まで送ってくれるところだった。動かない鳩を素手で拾い上げて箱の中に入れる母を友人に見られるのが少し恥ずかしかった。

 

友人に「ごめんね、ちょっと帰り遅くなるけどお母さん心配しないかな?」と母が聞くと友人は「お母さんまだ仕事だから大丈夫です」と言った。彼はよく「俺の家はお父さんがひとりで建てたんだよ、300万円しかかかってないんだよ」と自慢していた。

 

動物病院に着き、母は診察室に入っていった。母が戻るまで僕らは無言だった。戻ってきた母は「もう死んでるんだって」と言い、再び車を走らせた。

 

母が「死んだ動物の体は死体じゃなくて死骸って言うんだよ」とよく言っていたのを思い出した。辞書的な意味での過ちを正しているのではなく、彼女の価値観から導き出した言葉の区別だったんだと思う。

彼女は「《死ぬ》じゃなくて《亡くなる》でしょ」とも言った。人が死んだニュースを見ながら僕が《死ぬ》という言葉を使ったときだ。僕はなぜかその区別が嫌だったので、その後も人が死んだことを話すときには《死ぬ》を使っていた。

 

海に着いた。僕と友人とで砂浜を掘り、大きな穴をつくった。穴の傍にしゃがんだ母は箱に眠る鳩をそのまま転がし、穴の中に落とした。

 

掘り返した砂を鳩の上にかけ、スニーカーで踏み固めた。

 

手、海で洗いなさいと言われ、友人と並んで波に手のひらを浸した。鳩の埋められた砂浜に寄せる波が手のひらを清潔にしてくれるとは思わなかったけれど、もしかしたらあれは清めだったのかもしれない。

 

友人の300万円の家には明かりが灯っていた。走って家に入っていく。

 

こういう話は僕が書くよりもその旧友が書いてくれたらいいのに、と思う。