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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

「危ないことするなよ」

毎朝「危ないことするなよ」という母の寝ぼけた声に送られていた。


母は夜ふかしばかりしていて、小学生のころはいつも僕が下校する時間に起床していた。ある深夜、尿意を感じて目覚めた僕がトイレに行こうとすると、ダイニングの椅子のうえで膝を抱え、テレビの砂嵐を見つめている母を見たことがあった。恐かった。

夜ふかしな母は夜に機嫌がいいことが多いので、僕も夜ふかししていろいろなことを話した。何を話したのかはてんで覚えていない。母といっしょに爆笑オンエアバトルを見ていた。

 

専業主婦だった母は朝起きる必要がないので起きなかった。朝食はいつも前日スーパーで買ったどら焼きとか冷凍食品の大判焼きといった僕の好きなあんこの入ったお菓子か、父の作る目玉焼き納豆丼だった。ちなみに学校から帰ってきた時間はちょうど起きて間もない母がその日はじめての食事を取るタイミングと重なっていたので、母とキョーダイといっしょに「ウリナリ」とか「世界まる見え」を見ながらうどんをすすった(僕の地元には日テレの電波が届かず、そのためフジテレビ系列のチャンネルで2ヶ月くらい遅れた夕方にそれらの番組が流れてきた)。1日4食とっていたせいで、小学4年生くらいまでの僕は太っていた。5年生に上がって放課後のクラブ活動に参加したおかげで自然と痩せていった。

 

いつから母が「いってらっしゃい」の代わりに「危ないことするなよ」と言うようになったのか今はもうわからない。母はもう死んだので聞くこともできない。


しかし確かに小学生のころの僕は「危ないこと」をよくしていた。
低学年時代だけでも、小学1年登校初日に集団下校の列から離れ迷子になったり、転校してきた体のでかい男と大ゲンカして彼の二の腕を思い切り噛んだり、体の小さな友達をおんぶして廊下を走っていたら転んでしまい手で窓ガラスを突き破り血だらけになったり、セミ捕りで登った木から落ちて気絶したりした。
すぐに思い出せるだけでも色々と「危ないこと」があった。きっと僕が覚えていない「危ないこと」も無数にあったのだろう。母にとってはじめての子供だった僕が、他の子よりお調子者で乱暴者だったのだから、母は気苦労したのかもしれない。

 

 

母は幼かった僕をあまり外で遊ばせなかった。土日の休みの日、「らさ君遊ぼうよ」と遊びに誘ってくれた友だちをインターフォン越しに「今日は家族で出かけるからダメなんだ」と何度も断った。たまに家に入れてゲームしたことはあったけれど、断った思い出の方が強く残っている。

 

どうしても友達と遊びたくて、家の貯金箱からお金を盗ったことがある。母に内緒で家を飛び出し、近所の駄菓子屋に行くと友だちがいた。そこには50円でできる「ストリートファイター」や「メタルスラッグ」のアーケードゲームがあって、みんないつもそこに集まっていたのだ。いつもいない僕を見かけても彼らは何にも言わずに迎え入れてくれた、と思う、あまり覚えていない。覚えているのは、ゲーム機の前に座る僕を連れ戻しにきた母のジーパン越しの太ももと怒った声と、その瞬間の諦めだけだ。

 


「危ないことするなよ」という言葉は大学入学に伴って上京するまでずっと言われてきた。

中学に入ると土日も部活動があって母は遠征地に送り迎えしてくれるようになったし、高校からは昼食が弁当になったので、早起きしてくれるようになった。

そのころの母はしきりに「むかしのお母さんは抑うつ状態だったのかもしれないね」と笑っていた。僕が高校に入ってまもなく父が躁鬱病になり、母はいろいろ勉強したために、かつての自分のこともわかるようになったのかもしれない。

 

大学に入り、ひとり暮らしを始めてからはもちろん、「危ないことするなよ」と言われなくなった。好きな時間に起きて(学校には真面目に行かなかった)、好きな時間に帰ってきてよかった。何をしても母に知られることはない。僕は自由だった。


にもかかわらず、僕は大学時代何もしなかった。アルバイトもしなかったし、サークル活動もそうそうに辞めた。夜遊びはしない、遠出もしない。何人か大切な友人ができてダラダラとくだらない話を朝まですることはあったけれども、彼らと何か強烈に思い出に残るようなことをした記憶はない。
僕は彼らがときどき言う「お前らといると本当に落ち着く」という言葉が大嫌いだった。僕には彼らしかいなかったが、彼らは僕以外にも友人がいた。彼らは他の友人と「危ないこと」をした。僕は「危ないこと」をする友人を最後まで持てなかった。それはもちろん僕が能動的に動かなかったことが問題なのだが、それでも彼らの「お前らといると落ち着く」という言葉は嫌いだった。僕のキャンパスライフはずっと落ち着いているのだ。本当はお調子者で乱暴者なのに。

 

だから、たまに大酒かっくらうと暴れた。暴れる僕をなだめるゼミの先輩をぶん殴ったり、コインパーキングの看板を叩いて拳を血だらけにしたり、緑道のベンチをひっくり返したり、買ったメロンパンをちぎって帰り道を取り囲むアパートたちのベランダに投げ入れたりした。そういうことは全部あとから誰かが教えてくれる。

 

そういえば母は毎日酒を飲んでいた。缶ビール6缶くらい(500mlだったか350mlだったか忘れた、その時々だったろうか)、とりあえず毎日半ダース買っていたことは覚えている。夕飯を作りながら飲み、夜中までちびちび飲み続けていた。他の酒は飲まなかった。晩年は酒の量も減っていたが、死後彼女の財布を見たら、死ぬ前日まで彼女はビールを2本買っていた。


中学2年のころ、部活から帰った僕はめずらしく母の夕飯の買い出しに付き合った。小学生時代は毎日のように母の運転する車に乗って、キョーダイといっしょに買い物についていた。中学の部活は6時過ぎまで続くのでその習慣はなくなったが、その日はたまたま部活が早く終わったので、たまには着いてってやるか、と思い、車の後部座席に乗った。

 

スーパーの帰り、後部座席で横になり眠ってしまった僕は、母の「大丈夫!?大丈夫!?」という大声で目覚めた。
お気に入りの白いパーカーが赤く染まっている。母は今までに見たことのない切迫した表情で僕の顔を見ている。彼女の背後にある車のドアは開きっぱなしで、外には何人か人が集まっていて、別の車のヘッドライトが眩しい。「事故に遭ったんだよ、大丈夫?」と母が言う。ふと痛む頭を拭うと袖に血がべったりついた。頭から血を流していると知った僕の体はがたがた震えだした。母は「大丈夫だから」と言い残して立ち上がり、ヘッドライトのつきっぱなしになった車の横に佇む男に「早く救急車呼びなさいよ!」と怒鳴っていた。


結局僕は8針ほど縫っただけで済んだ。ぶつかってきた車の運転手は酒に酔っていたらしい。後日彼は両親に連れられてフルーツの詰め合わせとお見舞金を持って僕の家にやったきた。「申し訳ございません、こいつには嫁と娘がいて、でも今は別居していて……」みたいなことを彼の父親が言っていた、ような覚えがある。あとから母に教えられただけかもしれない。
その事故以来、母はずっと飲んでいたエビスビールから銘柄をアサヒに変えた。事故の衝撃で飛んできたエビスビールが、僕の頭を傷つけたからだ。車のなかにはビールの泡が飛び散っていたという。


僕は車の運転がとても下手だ。免許をとってまもなく母を助手席に乗せて何度かハンドルを握ったが、車を降りるとき母はいつもグッタリしていた。やがて僕はまったく運転しなくなった。

 

高校生のころ、ふたりの友人が中型バイクの免許取った。彼らは僕を後ろに乗せたがった。どこかに遊びに行くとき、大きなエンジンを轟かせて僕の住む閑静な住宅街に乗り付けた。その音を聞いた母は外出を許さなかった。


「バイクの後ろに乗るなんて危ない、ケガしたらどうするの!?」


何度もケンカした末、僕は迎えに来てくれる友人と、家から少し歩いたところにある郵便局の駐車場で待ち合わせるようになった。

同い年の友人が運転するバイクの後部座席に座っていると、耳のそばをつぎつぎと流れていく夜風の音が、「危ないことするなよ」という声をかき消した。しかし僕はその風の音をまだ自力で捉えることができない。
高校1年でバイクの免許をとったふたりの友人、ひとりはバイク屋の跡取りとなり、もうひとりは公務員として働いている。僕は東京で無職をつづけている。