ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

ぼくがうっとうしい

書くとか話すとか読むとか聞くとか本当に難しい。

 

文章の場合、たいていはそれが何について書かれた文章なのかという情報があらかじめ提示されている。あるいはそれが読むに値するかどうか価値判断が誰かによってなされていてそれを参考にする。小説を例にとると、タイトルや装丁、あるいは書評とかクチコミ、はたまた本屋での陳列のされ方だったりがそれだ。ランキングもそうだろう。ネットにあるあらゆる記事もそういう数多の情報に晒されている。

文章を読む前にその文章にまつわるたくさんの断片的な情報に触れて、ぼくらはその文章を読むかどうか(ほとんど無意識に)決める。まあ文字ならとにかくなんでも読むという奇特な人もいるだろうけど。

 

人の話を聞くにしたってそうで、話者の顔つきや身なり、表情、声音によって、その人の話は聞くに値するかどうか聞き手は無意識に判断している。

スナックで酒を飲んでいたら声のでかい酔っぱらいが入ってきた。やたらと乾杯をしたがる。瘦せぎすで、たまに顔の片側を歪める。中年の男だ。こういう人の話を聞こうとはあんまり思わない(聞いてみたらおもしろいことはありえる)。

 

こんな話をすると、書いたり話したりする前の段階がとても大事だから、体裁を整えなければならない(『人は見た目が9割』)という話になりそうだけど、そういうことは書かない。

 

くだんの瘦せぎすはぼくに言った。

「話しかけてくれるなっていう感じだね、でも飲み屋って一期一会だから。一杯おごるよ。

むかしきみみたいに朴訥とした男の人がバーにいてね、そいつに『何か趣味あるんですか?』と聞いたら将棋が好きで将棋会に通ってるっていうんだよ、ぼくも将棋指せるから話聞いてたらさっきまで大人しかった彼はうれしそうに話しつづけてた。だからさ、きみも何か好きなこととかあるでしょ?それ教えてよ」

 

これがぼくには結構クリティカルな問いだった。おっさんウザってえよ、と退けてもいいような絡み方だったとは思うが、彼の「きみも好きなことあるでしょ?」は聞き流せなかった。文章の場合、本を閉じれば読まずにすむが、人が話しているときに耳をふさぐわけにはなかなかいかない。

 

「ぼくはあんまり好きなものってないんですよ。というか、『好き』って気持ちは、どの程度好きになったら言っていいものなのかわからない。

たとえばさっきの朴訥とした将棋好き男に対して『ぼくも将棋好きでたまにネットでやります』なんて言ったとして、彼に『そんなんで好きとか言うなよ』と内心で思われたらお互いに気分悪いじゃないですか。ぼくの『軽い好き』は彼の好きをおとしめるし、彼にぼくの好きを見下されたら、ぼくの好きは消えてしまいかねない。

『好き』の表明にはある程度のこだわりが見えないとダメなんだろうなって強迫観念がぼくにはあります。だから安易に何が好きかって言えません」

 

そのあと何か彼に良いことを言われた気がするんだけど、あんまり覚えてないので割愛する。

 

 

この安易に好きって言えない感覚を持ったのはなぜだろう。たぶんオタク的な愛の表明の仕方が正義だった時代に子供だったからかもしれない。

自分が対象のどこに惹かれるのか、できればそれが細部であるほどツウである、みたいな風潮。あるいは対象をどのように愛でているかという己のスタンスの歪さで自身の愛の大きさを見せつける感じ。

 

ぼくはオタクの愛のあり方を悪いと言いたいわけじゃなくて、そのオタクのスタイルを盗んでネタにした連中に対するわだかまりがあるからこんなことを書いてるんだと思う。アメトーク的な文化に対する憧れとヘイトが渦巻いている。ぼくはオタクのように何かを偏愛できなかったし、ひな壇芸人のように器用にもなれなかった。

 

 

瘦せぎすの男が言ってたことを思いだしたので割愛撤回する。

 

「きみは優しすぎるんだよ。飲み屋なんてみんな酔っぱらってテキトーに話してるだけでしょ、自分の話したいことを話すだけ。それなのに自分の『好き』は程度が低いから話せない、ってのは優しすぎるんだと思うな。あるいは傲慢。悪いけど、誰も誰の話も聞いちゃいないよ、それでもみんな話すんだよ、一期一会だから」

 

誰も誰の話も聞いちゃいないってそりゃあちょっと言い過ぎだろうとは思うけど、ぼくが傲慢だって指摘は当たっていると思う。ぼくの好きは偉くあるべきだと思っているフシがあるから。それは、ぼくは偉くあるべきとほぼ同義である。偉いぼくの好きは誰にも否定されたくないし、偉いぼくは誰にも傷つけられたくない。それだからぼくは何も話せなくなっている。

 

これってけっきょくぼくが自分以外のほとんどのものを本当には好きじゃないってことだと思う。自分の好きを否定されないように理論武装することもなければ、好きだ好きだと連呼することもない。自分が傷つき果ててでも守りたい愛もない。そして、そういう好きがないとダメだと思ってる。そんな決まりはないのに。だから苦しい。ぼくはぼくが好きなぼくがうっとうしい。

 

書いたり話したりすること自体に難しさを感じるのは、ぼくに伝えたい愛がないからだろう。

伝わらなさに難しさを感じているわけじゃないのだ。伝えたいの無さに生きにくさを覚えている。

口火を切れない、一筆目を落とせない、それはその必要がないからなんだ。必要とされている文章、話って一体なんなんだろうか。

 

話は逸れるが、愛しか語っちゃいけないという抑圧もあると思う。芸のない人間は毒舌芸するな、が拡大解釈された結果ではないだろうか。

芸のない毒舌と同様に、芸のない愛の表明もゴミだ。

でもぼくはゴミにすらなれてない。

 

 

この文章はなんで読まれたんだろう。