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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

男がドヤ顔で語る恋の思い出 『ラ・ラ・ランド』感想文

冒頭ハイウェイでの長回し(風?)ミュージカルシーン、曲のラストでカメラの高度が上がり、撮影のために封鎖した車線以外では車が走り続けてるのを見せるんだけど、この映像に「この撮影のために道路封鎖したのすごくない?」という自慢を見てしまい(いや、もちろんすごいんだけどさ!)、物語に入り込む気分を初っ端から削がれる。色鮮やかなふつうの人たちがこの映画のコンセプトを歌って踊って叩いて弾いて説明するのは楽しいけど、このカメラの上昇によってデイミアン・チャゼルのドヤ顔を感じ取ってしまって、どうにも俺はダメだった。あと、ハイウェイの車を横移動で捉えるところでドゥニ・ヴィルヌーヴ『ボーダーライン』(2015年)を思い出してしまい、銃撃戦が始まるのでは?とわなわな怯えたこともあって、のめりこめなかった。

 

そういえば、セバスチャン(ライアン・ゴズリング)はビビりだった。サプライズするためにこっそり帰ってきたのは自分なのに、帰ってきたミア(エマ・ストーン)にビビるところなんかは、めちゃくちゃチャーミング。俺もそういうところあるので気持ちわかります。ドッキリを仕掛ける奴は自分こそがビビりなのだ。

 

そんな調子でいつ『セッション』(2014年)の交通事故的なアクシデントが起きるかと身構えていたら、いつの間にか画面からは彩りが失われていて、セブとミアの関係は1年も経たずにすれ違ってしまう。ふたりは別々のルートを進むことを決めるのだけれど、そんなのはハナから決まっていたことだ。ビュイックリヴィエラコンバーチブルというクラシックカー(映画「ラ・ラ・ランド」のファッションに注目する4つの理由 | Fashionsnap.com)に乗るロマンチックなジャズピアニストであるセバスチャンと、プリウスに乗るといういかにもハリウッドセレブ的な振る舞いだけは最初から身につけていた女優志望ミアの恋路が続くわけはなかった。俺は悲恋が大好物なので、この辺りから映画にのめり込めるようになった。だから、重ならなかったふたりの未来を映画という魔法でふたりに夢見させてくれるというクライマックスはキュートでロマンチックで泣ける。既に指摘している人もいるが、小沢健二のニューシングル「流動体について」が残酷かつ美しく描いてみせた「ほんとうのこと」と、『ラ・ラ・ランド』の結末は、たしかに似ている。
並行世界、ありえたかもしれない別の未来、別の選択をしていたら自分(たち)が歩んでいたであろう現在に想いを馳せつつ、いまを肯定する覚悟みたいなものには、感動してしまう。せざるをえない。

 

しかし、それでもやっぱり『ラ・ラ・ランド』を全肯定する気にはなれない。不満な点はいくつかあるけれど(いわゆる「ジャズ警察」じゃなくてもこの映画のジャズの描き方には疑問を抱くでしょ?)、その最たるものはミアというキャラクターのわからなさだ。

 

ディズニーアニメのヒロインがたくましく描かれる時代にあって、「私を見つけてくれる誰かがいるはず」みたいな夢を見ているのはちょっとイタいし(そういう痛々しさを引き受けられるかどうかが案外この映画を気にいるかどうかの分かれ目かもしれない、なんでミアを痛いと思うかって、それは同族嫌悪からです)、6年間オーディション受け続けてるけど努力が実らなくて惨めすぎて辛いよ、とか言われても、彼女が本気出したのは(劇中では)自分で押さえたハコで自作自演の劇をやってみたあの1回だけだから、感情移入のしどころがわからない。なんども衣装を変えて行われる数々の不遇なオーディションシーンも、セブとミアが服を着替えまくってたのしくデートに繰り出すシーンと重なってしまうから、悲惨さが伝わりにくい。せいぜいがコミカルな印象に止まってしまう。だから、ミアがどんくらい辛いのかってのは、観客それぞれが自分の人生と重ね合わせてしか理解できないのではないか、と思う。

 

あと、お前との生活のためにちょっと気にくわない奴ともバンド組んでツアー回って金稼いでる恋人に対して理解なさすぎでは?とも感じる。ミアはライブ会場でバンドにおける彼氏の役割を目の当たりにしてショック受けるわけだけど、いや、ふつう自分の彼氏がやってるバンドの音源いちどくらい聞いとくだろ、なんでライブ会場ではじめて聞いて「わたしの彼氏は信念を曲げてダサい音楽やってるのか……」って落ち込むのは酷いよ……と思ったりする(「カルテット」6話で真紀(松たか子)が幹生(宮藤官九郎)のくれた詩集を読まないまま鍋敷きにしちゃうのとはワケが違う)*1

 

とはいえ、別れたふたりが再会したのは「セブズ」なわけで、セバスチャンくんはミアちゃんとの思い出をめちゃくちゃ大事にしている。セブズという名前は、ミアがセバスチャンにプレゼントした名前だ。
大事な思い出だからこそ、ふたりは再び体を重ねたりなんかしない。ふたりが一生愛し合っていることは、抱き合わなくたってふたりにはわかっているのだから。ふたりは愛し合っているのだから。ふたり愛し合ってる、それってなんでだ?

 

渋滞に巻き込まれたとき、それぞれの車中からセブとミアは互いを見つけ合う。レストランの外を歩いていたミアが、ピアノの音色に惹かれて扉を開くと、ピアノの前にはあのときの失礼な男セブが座っている。再会のとき、ふたりは見つめ合う、おそらく、このときふたりは惹かれあっていた、それはクライマックスの「ありえた未来(現在)」において、ふたりがこのレストランでキスをしていることからも伺える。

 

映画にあって、見つめあった瞬間男女(「男男」でも「女女」でもいいのだけれど)が恋に落ちるってのは、奇跡というより当たり前だ。だからここでふたりが恋に落ちてるとしても、それはまあ理解できる、しかし、『キャロル』(2015年)におけるキャロルとテレーズの視線の交錯に比べたら、あまりにも画面がゆるゆるな気がする。理解はできるけど納得できない。

 

『ラ・ラ・ランド』は「ミュージカル映画」であるにもかかわらず、顔のクローズアップがめちゃくちゃ多い。そのわりにひとつひとつが決まっているとはどうしても思えない。それが「どうしてなのか」はよくわからない。
とりあえず、演者のクローズアップより、透けて見える監督のドヤ顔の方が気になってしまった。ミュージカルというジャンルが要請するから思う存分留保なしに長回しできるのかもしれないけど、それにしたって、どうにも編集のリズム、長回しを含めたショットの組み合わせのバランスが悪い気がするんだよなあ。なんでだろう。

 

ミュージカル部分は唯一ミアが最後のオーディションで“My aunt used to live in Paris”と語り始め歌いあげるところに泣かされたけど、あとはあんまり高まらなかった。俺はダンスを見る目をまったくもっていないので、ふたりがタップダンスしてるところもよくわからなかったりして残念だったのだけれど、ミア=エマ・ストーンの歌いっぷりは『レ・ミゼラブル』(2012年)のアン・ハサウェイをちょっと思い出した。

しかしこれは有無を言わせず泣かせるなあ……。

 

 

と、いろいろ文句を言ったのに、見終わって帰ってきてからずっとApple Musicでサントラを聴いてる。楽しい。もう一回見たいと思ってしまう。なんでなんだ。

 

それは、『ラ・ラ・ランド』が、セブの姉が冒頭で言っていたように、ロマンを捨てられない男の夢を描いているからかもしれない。愛した女にできる限り尽くして、しかし避けられぬ別れが訪れ、数年後再開したとき、ふたりは互いに互いの人生を成功させている……。長い人生に、ひとつくらいこういうロマンチックな物語があると、男に箔がつく。ひとりで家事もこなせちゃうし、自分の店も持ってるし、好きな音楽を好きなようにやれる、でもそんな俺にも生涯愛し続けてるたったひとりの女がいるんだ、というストーリーは、やっぱりドヤ顔で語りたくなっちゃう。俺だってこんな思い出が欲しいような気がしてくる。
だから極端な話、女はどんなキャラクターであっても関係がない。男のロマンの投影にすぎないから。エマ・ストーン演じるミアがどういう女なのかよくわからなくてもいいのだ。というか自分のロマンを投影するための対象物だから、そいつについてのパーソナリティーはわからない方がいい。
この気分って大根仁『SCOOP』(2016年)にも感じた。あれは福山雅治の周りの人間たちが福山について語っているというより、福山雅治の亡霊が、俺を愛した女たち(男たち)について語っている物語だと思う。

 

『ラ・ラ・ランド』を見終わり、なぜかはやくジャド・アパトー「LOVE」のシーズン2が見たくなった*2
ミッキーが恋しい。

 


 


 

*1:でもまあ好意的に見れば、家に居たら彼氏のピアノの音色は聴き放題だから、それゆえにわざわざ彼氏のバンドの音源なんか聞かなかったのかもしれない。

*2:Netflixで3月10日から配信開始。