ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

彼/女

ちょっと今日会えないかな、とメールが来た。朝と昼のあいだのその時刻、俺は女とビーチにいた。そう伝えると「じゃあ海浜電車で今から向かう」との返信。

これから友だち呼んでもいいかな、と尋ねると女は「ダメって言ってもいいの?」と笑った。

 

2時間後、パラソルの下、手をつないで水着のまま寝ていた俺たちの元に、彼はやってきた。彼は肩を揺すって俺を起こした。最初、彼が誰だかわからなかったが面影はあった。その底意地の悪そうな、しかし頼りない目に、見覚えがある。お前か?と聞くと彼は「ああ」と答えた。

 

タイトで極彩色のワンピースの印象は、ビーチというよりアマゾンだ。唇がぶあつく真っ赤に塗られていて、肌は小麦色に焼けている。刈り上げのショートボブは持ち前の鋭角的な輪郭と調和している。

 

まだ寝ている女を放っておいて、俺は彼といっしょに海の家に行った。海の家といってもそれは真っ白の7回建てホテルの屋上にある。そのプール付き屋外ラウンジで、かき氷の代わりにうまいモヒートを飲ませてくれる。深夜になるとゲイたちが躍り狂うらしい。

 

モヒートを受け取ってテーブルに着く。ストローを抜き、一口飲んでからようやく、急にどうした、と声をかける。

 

「実は俺、もうすぐ死ぬんだ」と彼は言う。「もっと聞きたいことあるだろうけど、今日はそれが本題」と微笑んだあと、彼はストローに口をつけた。

なんで、と聞くと「末期ガンだって」と言った。そっか。

 

 

彼とは大学1年の入学式で知り合った。なんでもそつなくこなせるのに(から)破滅願望のあった彼は、俺といっしょに過ごしたがった。俺の不真面目をすぐに嗅ぎつけたのだろう。結局7年かけていっしょに卒業した。

 

卒業後、彼は大手通信会社に入社し、半年後地方転勤となった。卒業してもぷらぷらしていた俺は、金のある女に拾われて今も遊んで暮らせている。最近は女に帳簿を付けるのを手伝わされているけれど。資格を取ろうと簿記の勉強をはじめたところだ。

 

彼と会うのは4年ぶりだった。在学中の悪友ぶりが嘘のように、卒業してからの俺たちは、とんと連絡を取らなくなった。俺は友だちが少なかったから、彼のうわさを聞くようなこともなかった。

 

 

「お前は年上の女の方が似合うな」と彼は言った。8歳年上、と答えると彼は「ヒモかあ、うらやましいなあ」とじっとりした目で俺を見つめ、またストローに口をつけた。ズズズズズ、と音がする、もう飲み切ったらしい。

 

同じのでいいか?と聞きながらグラスを持って立ち上がると、彼は「私もう行くから」と言う。言った後ですぐ「俺」と付け足す。いつも通りでいいよ。

グラスに入ったストローの先は紅に染まっている。「この格好するとやっぱり女になるんだよ」と自嘲気味に笑う。

 

カウンターに行って水のペットボトルを2本もらった。1本300円もする。

フタを空けてから彼女に手渡す。

 

「ありがと」と言って受け取る彼女の指は角ばっていたが、真紅に塗られた爪は彼女の後ろで光る青い海に映えていた。

 

「もうこれで最後だと思う」、彼女は言った。

いつからなんだ、と聞くと彼女は「ガンの方?それともこっち?」と言いながら自分の胸を突いた。どっちもだわ、と言いながら俺は笑ってしまう。

「ガンを知ったのは春。気づいたときには手遅れっていうよくあるやつ。女になりたいと思ったのはその後。この胸はもちろんパットだけど」

 

大学生のころの彼は生粋の女好きだった。顔が特段良いわけじゃないのに努力で身につけた人当たりの良さと本来の底意地の悪さのギャップがなぜか女にウケた。女には困らないのに、卒業前には風俗狂いにもなっていた。ずっと恋人がいたのに彼はそんな調子で、彼の色情狂いを知ってか知らずか、とにかく彼と恋人の関係は卒業まで続いていた。その後のことは知らない。

そんな彼が今際の際近くで「女になりたい」と思うのは意外なようで、すんなりと理解できた。

 

「もう行こうかな」。陽が傾きはじめている。海の向こうから大きな雲がやってくるのが見える。高いところにいるからか、潮風が少し冷たい。海の上を走る線路が、彼女の背景に見える。

駅まで送るよ、と言うと「彼女はいいの?」と聞いてくる。大丈夫だよ、と言って彼女のペットボトルのフタを閉めてやる。

 

大勢の人で賑わうリゾート地なのに駅舎はボロボロで閑散としていた。みな車でやって来るから誰も改修なんて要求しないのかもしれない。俺も、女の運転する車に乗ってビーチにやってきた。

潮風で朽ちた木造の駅舎にはしかしちゃんと自動改札機があって、情緒が削がれるように思ったけれど、いまどき自動改札機なんて当たり前だから、俺の勝手なセンチメンタルでしかない。

 

はじめてだから俺も中入りたいわ、と言って入場券を買った。先にホームに入っていた彼女を追う。

駅舎正面の改札機に切符を通し、幅広の階段を5,6段上がるとそこはもうホームだった。ホームの向こう側は透き通るような青の海だ。ホームの50センチ下に海面がある。

寄せては返す波の音がホームに反響している。右手に目をやると彼女が白に塗られた木のベンチに腰掛けていた。彼女の元に行こうとすると背後から滑るように電車がホームに入ってきた。滑るよう、というのは大げさでもなんでもなくて、電車が来ていることに本当に俺はまったく気づかなかった。しかし気づいてみるとそれは案外大きな音を立てていた。電車の跳ね飛ばした海水でホームが濡れている。終着駅だというのに誰ひとり降りてこない。折り返しで始発になる。

 

立ち上がった彼女は、俺の両手にぶら下がった2本のペットボトルを受け取り、中に残った水を捨てながら、ホームの端へ行き、海水を汲んで戻ってきた。

 

発車のベルが鳴る、片方のペットボトルを俺に差し出して彼女は「なんかよくない?」と言った。なんかシャレてるよな、と答えて俺はそれを受け取った。

 

電車が去ると、また波の打ちつける音がした。ぽちゃんぽちゃん、ぽちゃんぽちゃん。電車と入れ替わりで雨雲がやってきた。海にたくさんの細かい雨滴が打ちつける。ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱち。大学時代、チャペルの前の芝生でスコールに打たれたことを、ふと思い出す。避難した学食の窓辺で大きな雷の音を聞いた。視界がかすむほどの光も鳴った。そのときの彼はどんなだったか、いまはもう覚えていない。

 

スマホを見ると、女から「車で待ってる」とLINEが入っていた。ビーチサンダルについた砂をはらって駅舎を出る。細かい雨に濡れながら舗装された道を駐車場へと向かって歩く。ペットボトルに入った海水をバシャバシャと振りながら歩いていたらいつのまにか雨は止んでいて、そういえば俺は駐車場の場所を忘れているな、と思う。