読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

クソガキ

雑記

「少年が主人公の小説に欠けていて、少女が主人公の小説では描かれているもの、それは他者に真実を告げるか告げないかの葛藤だ」みたいな文を目にしたことがある。俺は小説をあまり読まないので真偽のほどはわからないし、そのような印象を抱くことすらできないのだが、俺はこの文章を覚えている。だからこの一文から始める。

先の文を書いた人は「葛藤は大人の感情だ、だから少女小説は大人の読みにも堪えられる」と続けた。その理屈は腑に落ちる。

 

小説には言葉しかないから、内面を描くのに適している。心は言葉だから、言葉が心を描けるのは当たり前っちゃあ当たり前だ。「言わなかったことの辛さ」を表現するのに言葉を尽くしたりできるのが、小説の持ち味かもしれない、なんて考えてみる。これから小説を読むことがあったら、その味わいを意識してみてもいいかもしれない。

 

他方で、映画は「言わなかったこと」を表現するのが苦手な芸術という感じがする。登場人物の心情がナレーションされているのを聞いてこそばゆくなった覚えのある人は少なくないだろう。俳優は、心のなかを表現するために演技をするのだろうし、ゆえにその演技はほとんどリアルとはかけ離れる。人はふつう、心情を自らのおもてに表現しようなんてしないから。そして、その演技は、見る者たちに様々な解釈を許していく。「言わない」を演技する場合には、何かを我慢している表情を作ったりするのだろうけど、では、たとえば「それを言わなかったことの辛さ」みたいなものは、観客の読みに委ねざるをえない。

 

俺は、「その人のために」何か言葉を我慢したことがない、と最近気がついた。自分の保身のために言わないでおいたことは数多くあるけれど、「その人のために」口をつぐむ努力をしたことはほとんどない、いや、努力だけならあっただろうか、でも、結局いつも言ってしまうので、その努力にも意味はない。

 

人のこころを傷つけるようなことを、ためらいもなくズバズバ言ってしまう、ときには自分の言葉が鋭利だと気づかないまま差し出してしまう、相手に刺さって血が出てから自分の言葉の鋭さに気づくなんてこともザラだ。この人なら俺の言ってることの真意も、どういう意図で俺が言っているのかも汲み取ってくれるだろう、みたいな甘えがあるときほど、言ってしまう。だから、近しい人ほど傷つけてしまう。そして俺はいくつかのこころにたくさんの傷をつけてしまった。

 

最後に母と話したとき、「あんたになら何言われても受け入れられるけど、今は無理、ちょっとごめん」と言って彼女は電話口で泣いた。今だからわかる、あの頃の母は、こころも体も弱り切って、俺の浅慮ゆえのギザギザ尖った言葉を受け止める余裕がなかった。そうだ、母は俺の言葉を受け入れたことなんてなかったのかもしれない、必死で受け止めていたのかもしれない。そして死んだのかもしれない。まあ、そんな考えは傲慢だろうが。

 

俺はまだまだクソみたいな少年なんだって、最近になって気づいた。クソガキだよ俺は。葛藤のない俺の文章は、まだまだ大人の読みには堪えないのだと思う。一時期の俺が映画を見ていたのは、自分勝手に解釈していいんだって勘違いしていたからなのかもしれないな。