ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

ハードボイルドフィアンセ

6回目の鑑賞を終え映画館を出たらそこは焼け野原だった。俺は瓦礫のなかを早足で行く。前を行く家族を追い越すとき、そのなかにいたおじいさんの足に、俺の足が引っかかってしまった。彼は転んだ。しかし先を急いでいた俺は立ち止まることなく振り返って謝っただけで、おじいさんを助けなかった。彼の隣には頑強な息子がいたから、俺の助けは必要ないと思ったのだ、なぜか俺は先を急いでいた。

数日後、おじいさんの息子が俺を訪ねてきた。「お前が老人を助け起こさないような人非人になってしまったなんてガッカリだよ」と彼は言った。彼は幼いころに会ったきりの親戚だった。たぶんいとこかまたいとこ。ということは、あのおじいさんも親戚らしい。

瓦礫のなかを歩きながら、「たぶんいとこかまたいとこ」に弁解した。俺は、油まみれの井戸のなかに火の灯ったマッチを放った。燃える水を見ながら、「こうやって、限られた範囲のなかで火遊びをしてるうちはよかったんだ、でも、火に魅せられた人間は、その魅力から逃れられなくなる。だから、俺は街に火をつけた。でもそれ以上の力がこの街を焼き払っちまった」と訳のわからないことを言った。そう言いながら、瓦礫のなかに立ったハリボテの家々に、もう一度火をつけて回った。彼はもう何も言わなかった。

「貴様!何をしている!」背後から声がする。俺の怯えきった体は動かない。逃げられないと直感する、殺される。

背後からゆっくりと正面に回ってきた軍服は、使い古した銀のベレッタを俺の足元に放った。俺とは目も合わせることもなく、部下の運転するジープの後部座席に乗り込み走り去った。

恐怖で硬直した体を動かすのは困難で、軍服が立ち去ってから数分後、やっとの思いで首を横に向けると、「たぶんいとこかまたいとこ」も俺と同じように呆然としていた。とりあえず俺たちの命は助かったらしい、が、この足元に落ちている拳銃は一体なんだろう。「たぶんいとこかまたいとこ」の足元にも同じ銃が落ちている。目が合うと同時に金縛りが解けた俺たちは、銃を拾って一目散に駆け出した。打ち合わせはなかったが、ふたりが目指すところは同じだった。背後にそびえていたヨーロッパ式鐘楼だ。階段を駆け上がり、鐘の下に腰を落ち着け、呼吸を整えながら、マガジンを取り出す。弾は完全に充填されている。

地上で銃声が鳴った。おそるおそる覗いてみると、さっきの軍服がアサルトライフル銃口を空中に向けている。彼の前には何人ものルンペンが横一列に立っていて、再び鳴った銃声を合図に彼らは駆け出した。ルンペンたちは、俺と「たぶんいとこかまたいとこ」が持つのと同じベレッタを握っている。がむしゃらに撃ちながら走る彼らの体が、軍服の放つ弾丸によって貫かれていく。何人かが倒れ、何人かが逃げおおせた。逃げ切った奴らの共通点は、街を歩く廃人たちを撃ち殺したことだ。倒れた奴らは、狙いを外したのだ。走りながら撃つのは難しい。そもそも引き金を引けない奴も多かった。

彼らと同様にルンペンである俺たちも、軍服の前を走らなくてはならないのだ、と悟った。さっきの光景には、有無を言わさないものがあった。この街を焼き払った力と同じように、抗えないものだった。

鐘楼を降りた俺たちは、軍服の元へ歩いていき、他のルンペンに混ざって横一列に並んだ。軍服が背後にいるが、さっきとは違って、気持ちは落ち着いている。恐怖はない。駆けて、撃つ、ただそれだけのことだ、やるべきことが決まっていれば恐れることは何もない。銃声が鳴る。走り出す。奇声を上げているのは、俺だけじゃない。右手から視界に入ってきた老婆に狙いを定める、その歩みは遅く、揺れる右手でも照準は決まる。一発目は老婆の肩をかすめただけだったが、その痛みでうずくまった彼女の頭を撃ち抜くのは簡単なことだった。

 

老婆の脳みそが弾ける前に、目が覚める。機内アナウンスが聞こえる。「当機は約10分後、着陸態勢に入ります、降下いたしますと、お手洗いはご利用いただけません、あらかじめご了承ください」。

寝汗のせいで、前髪が額に張り付いている。隣では恋人が寝ている。老婆の脳みそは弾けなかった。恋人の右手を握る。彼女の向こう側にある窓からは青空が見える。

水をもらおうと思い、キャビンアテンダントを呼び出すボタンを押そうとしたら、突然の衝撃に体がつんのめり、前の座席に額をしたたかぶつけた。至るところから叫び声が上がる、目を覚ました恋人はきょとんとしている。ブザーが鳴り、頭上から酸素マスクが降りてきた。

飛行機は急降下しているらしい。斜め前に見えるキャビンアテンダントは、叫ぶのをこらえながら、座席にしがみついている。こらえるというか、声を上げる余裕すらないのかもしれない。

恋人の手を握りながら窓外に目をやると、雲がものすごい勢いで上方に流れていった。照明が全て消えた。薄暗い機内は轟音の後で照らし出された。飛行機は、俺たちのすぐ目の前で真っ二つに裂けてしまった。動力もコントロールも失った尾翼側の機体は、水平を保ちながらものすごいスピードで落ちていく。激しい風圧によって呼吸ができず、ただ股座に顔を突っ込んでいた。恋人の顔を見ることもできない。恋人の名前を呼ぶ自分の声も、自分らを叩きつける暴風にかき消される。そもそも声は出ていないのかもしれない。喉が閉まっていく。頭をかばう腕が、水滴に叩かれる。

一瞬、風と音が止んだ。顔を上げると、俺の視点は割れた機体の正面にあった。俺は機体そのものになった。豪風と爆音が再び俺を包む。草原のうえを猛スピードで行く。視界いっぱいに広がる緑はときどき小川のせせらぎに分断されるが、それも一瞬のことだ。動力もコントロールも失った機体(=俺)は、視線をまっすぐ保つことだけに神経を集中した。草原の先には巨木がそびえている。その背丈は摩天楼よりも高く、幹の直径は凱旋門より長い。茂る枝葉の下に、日が届くことはなく、雨滴もささないため、草原には茶色の空白ができている。割れた機体(=俺)は巨木の枝葉に引っ掛かろうとしている。

 

視界の中で大きくなる巨木に突っ込む前に、目が覚めた。座席に座っている俺は宇宙服を着込んでいる。通路を挟んで隣に座るフィアンセが、ずっと俺の名前を呼んでくれていたことに気づく。「ひどくうなされてたけど、どんな夢を見たの?」という彼女の問いに俺は答えられない。地球に着陸寸前の宇宙船のなかで話すには、その夢の内容はあまりにも縁起が悪かった。俺たちは、地球に戻ったらささやかな結婚式を挙げる予定だ。

この宇宙船のコクピットは、俺たち乗組員が座っているだけの空間とシームレスにつながっている。ベルトに縛られた俺の目に、背もたれより高いところにある船長の後頭部と、フロントガラスの向こうの宇宙が映る。首元を濡らす汗が少し気持ち悪いが、宇宙服の上から拭えるわけもない。こんなことならちゃんと肌着を着ておけばよかった。夢を見て冷や汗をかくなんて、少しナーバスになっているらしい。

見飽きた景色のなかに青い地球が見えてきた。「我が家だ!」と叫ぶ船長の声に、後ろのクルーたちからも歓声が上がる。7人きりのミッションもようやく終わりを迎える。宇宙滞在の2年間はエキサイティングなものではなかった。宇宙にいると、空間も時間も己の生も無限に感じられた。無限は退屈だった。しかし、無限なんてものは実際にはない。我々は、自らの認識の限界の先を無限と呼ぶだけだ。無限を規定せざるをえない己の無力が虚しく、その現実を突きつけられ続ける日々のなかで精神を平衡に保つのは、骨の折れることだった。

酸素低下、のアナウンスとともに機内は赤く照らされる。宇宙船の電源は総じてダウンし、レッドライトもすぐ消えた。電子制御されていたベルトのロックも外れ、クルーは全員機内に浮かんだ、静止した機体のなかで酸素を失ったクルーは、ひとりまたひとりと息絶える。なんとか意識の残っていた俺はフィアンセの顔を見たが彼女はすでに事切れていた。舌はだらしなくこぼれ、瞳は溶け出していた。彼女の瞳から溢れた涙は、玉になって漂っている。かすかに動いているように見えた船長のもとへ少しでも近づこうとするが意識がもうろうとしてダメだった。霞む目で再びフィアンセのいた方を見ると、そこには半分に切られたゆでたまごが浮いていた。他のクルーも半分のゆでたまごになっていた。ハードボイルドに仕上がったフィアンセの白身と黄身のバランスはパーフェクトだったが、白身部分は少しだけ溶け出していた。そうか、宇宙空間で事切れると人間は半分のゆでたまごになるのだな、と知った俺は、この宇宙の真理に触れた心持になった。やがて俺も半分のゆでたまごになる、その前に、ゆでたまごになったフィアンセを食べてあげたかった。ミッション開始前、ベッドに横たわった彼女は「もし私が先に死んで灰になったら、少しでいいから私を食べてね」と言っていた。

彼女の玉になった涙が、ゆでたまごに触れ弾けた。しょっぱい涙がスパイスになったフィアンセはとてもおいしかった。

 

目覚めた俺はけたけた笑いながら、見た夢の話をいちいちしたけれど、この夢から覚めるのはいつだろう。