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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

人生のハッピーアワー 濱口竜介『ハッピーアワー』感想文

ちょっと前に友人4人で温泉旅行に行ったとき、どんな小さいことでもいいから今まで言わなかったことを言いあおうということになった。けれど、誰も口火を切らない。俺たちは本当になんでも言いあっていたので、言うことがなくてみんな困っていると思ったら、ようやくひとりトップバッターを名乗り出た。

彼は、1年前当時すでに別れていた女が妊娠し、なぜかそれが自分の子供だと言われてテンパり、堕ろすための費用を肩代わりしてあげた話をした。「今に思えば計算合わないし俺の子供じゃないって分かるんだけど、元カノかわいそうだったし俺も焦っちゃって……」と話す彼の言葉がどこまで真実かは知らないけれど、元カノの中絶手術の費用を負担したのは本当だろう。

そんな渦中にあったとき、彼はなんでもない顔して酒を飲んでいたしいっしょにカラオケに行ったり映画を見に行ったりしてくれていたので、俺は心底驚いた。そして、驚きの後に、小さい悲しみがやってきた。

相談されたところで、俺には大した援助もできなけりゃ、助けてあげることもできなかった。でも、今ではなく、当時話してほしかったな、と思った。傲慢なことかもしれない。いくら友だちとはいえ、言えないことも言いたくないこともなんとなく言わないままのこともある、それは俺だってそうじゃないのか?  さっき「俺たちは本当になんでも言い合っていた」と書いたけれど、そんなことはない。たとえば、俺はこのブログのことを彼らに話していないのだし。

 

『ハッピーアワー』(濱口竜介 2015)を見て、そんなことを思い出した。

 

主人公である4人の女性たちはみなそれぞれプライベートや仕事での悩みを抱えている。離婚裁判中だったり、夫婦仲が危うかったり、仕事に悩んでいたり、中学の息子が同級生を妊娠させてしまったり……。30代も半ば過ぎの彼女たちは4人きりでピクニックや温泉に出かける仲の良さだけれど、それぞれの抱えるトラブルをいちいち口に出したりはしない。

あるきっかけで、ひとりが自分のトラブルを話したことにより、彼女たちは互いの価値観をぶつけ合い、やがて画面からひとり立ち去る。4人がスクリーンでいっしょになることは2度とないかもしれない。でも、それは必ずしも悲しいことではない。

人と人とは、すべてを話しあうことも、すべてを聞きあうこともできない。たとえ親友や恋人であったとしても。夫婦でも、親子でも。

しかし、ときに人と人とはすれ違いざまに濃密な会話を交わすこともある。フェリー乗り場で、揺れるバスのなかで。やけに暗い打ち上げの席で、ダンスミュージック流れるクラブの片隅で。

 

『ハッピーアワー』は、濃密な会話が起こる瞬間を捉えることに心を砕いている。この試みは、本作の監督である濱口竜介が、酒井耕と共同で撮った「東北記録映画三部作」で取り組んでいたことと同じだ。向かい合って話し合う人々の視線を見事なカメラワークで演出し、被災者たちがまるで観客に向かって直接語りかけているように感じられた一連の作品。そこで使われていたバストショットは、『ハッピーアワー』でも見事に効いている。バストショットは、絶妙なタイミングで挿入され印象に残る。仮に、すべての会話が同じショットで撮られていたら、たぶん観客はほとんどの会話を取りこぼしてしまうだろう。大事なのは一瞬なのだ。その瞬間を聞き逃さないこと。

 

『ハッピーアワー』は5時間17分、3部構成の大作で、だから、一度見ただけですべてを語れるわけはないのだが(すべての映画は何回見たってすべてを語ることなんて不可能なのはもちろんだが)、すべてを語る必要なんてないのだ。5時間17分のうち、眠っている時間があったとしても、どこかひとつでも記憶に残る瞬間があれば良い。

劇中、ある作家が朗読する小説を聞いた主人公のひとりは「同じ景色を見ていても、作家さんは目の前を過ぎていくものを捉えようと腐心するのに対して、わたしは何にも見ていないんやなあって少し落ち込みました」とこぼすが、何にも見ていない、何にも聞いていないのが、当たり前である。それでもきっと、ほんとうのことが見える、聞ける瞬間、そしてやり直せるチャンスはこれまでもこれからも何度でもあって、そこを一度でも捉えることができれば、御の字なのだ。

人生のハッピーアワーは、長くはないが少なくもない。その一瞬を、一度でもいいから捉えること。

 

 

温泉につかりながら友人が語ってくれたこと。語らなかった今までに悲しみを覚えるのではなく、語ってくれたこと、そしてこれからもつづく関係に感謝すること。それが大切なのだ。