ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

断片的に

一人称が定まらない。


どの代名詞を自分に当てはめるか決まってはじめて、自分のことがわかるようになるのか、それとも、自分のことがよくわかるから、一人称が決められるのか、その辺のことはよくわからない。


そもそも、人が一人称を使う理由はなんだろう。自他の区別をつけるためだろうか。
自分のことがよくわからない子供でも、「ぼくね、お絵かきが好きなんだよ」くらいのことは親戚のおばさんに言えるわけで、「ぼく」は、同じひまわり組に遊んでいるお絵かきが好きな「ケイタくん」と、お絵かきが好きな自分のことを区別できている。
「ぼく」は「ぼく」ひとりしかおらず、おなじ「ぼく」を使うあの男の子が自分と違う人間であることは、幼稚園児にもわかる。自分の感情や欲望を状況を伝えるために、「ぼく」だったり「おれ」だったり、あるいは「つばさ」だったりの一人称を自身にあてがうことは、5歳児にもできる。そのとき彼は、自分のことがよくわかるとかよくわからないとかそんなことは考えていないはずだ。
「つばさくん」のなかでは、一人称を使い分ける意識はまだ芽生えていない。

 

そういえば、小学4年生くらいまで、家では「ぼく」と言い、学校では「おれ」と言っていた。
おそらく、両親に見せたい自分と、友だちに見せたい自分が異なっていたからだろう。幼稚園児のころと変わらない素直な天真爛漫な息子でいたいと思っていたような覚えがある。あまり良くない子供に育ちつつあることを、両親に悟られたくなかった。がっかりされたくなかった、無駄な心配をかけたくなかった。
その一方で、学校の友だちには、幼稚園児のころと変わらない、幼い自分の一面を隠したかった。悪いことだってできるぞ、と誇示したかった。そういう気持ちが、「ぼく」と「おれ」の使いわけによって表現されていたような気がする。
小学5年生くらいになると、学校での素行の悪さは先生を通じて親の知るところとなり、なし崩し的に家でも「おれ」と言うようになった。いや、なし崩しではなかったか。母と話しているとき、はじめて「おれ」と言ったときのなんともこそばゆく、居心地の悪い、しかし達成感のある心の動きと、そのときの光景は覚えている、ような気がする。母は努めてリアクションしないようにしていた、そんなような映像もかすかに頭のなかにある。


このように話を進めてきたのに、話の筋とズレつつ気づけたのは、ふつうの生活において一人称は、相手にどう見られたいか、というよりも、どう見られるべきか、に重点を置いて、使い分けられるものである、という至極当たり前のことだ。
取引先の人と電話しているときは「私」と言い、オフィスで部下と話すとき「俺」と言い、家では「パパ」と言う。時と場所と状況で一人称を使い分けるのがふつうの大人だ。


なんで至極当たり前のことに気づけなかったのか、それは、文章を書く際の「一人称」と、生活を送るうえでの「一人称」を、いつの間にかごっちゃにしていたからだ。「一人称が定まらない」と書きはじめたのは、こうやって不特定(多数)の人に見られる可能性のある文章を書く際の悩みを吐露したかったからだった。



唐突にまとまめるが、どういう文章を書きたいのかが明確であったら、一人称は自ずから決まるのだろう。文章にとってもっとも効率の良い一人称をその都度使い分ければよい。
要するに、「一人称が定まらない」という悩みは、どういう文章が書きたいのかわからないと同義なのかもしれない。


「一人称が定まらない」のは、「どういう文章が書きたいのか」が決まっていない、つまり目的の欠如がゆえ。「他者にどう見られるべきか」と言ったときの「他者」が不明確だから。この文章についぞ一人称を挿入できなかったのは、自他の区別がついていないから……なのだろうか。
んなこたあない。

 

 

書かなければ書かないほどに、話さなければ話さないほどに、一人称から遠ざかっていってしまうという皮肉な現実は、確かにある。