ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

「君の名は。」感想文?

君の名は。』はきっとこれから何度も見ることになるだろうな、と思えるほどいい映画だった。この作品を見るにあたって新海誠の『ほしのこえ』、『雲の向こう、約束の場所』、『秒速5センチメートル』を見ておいたんだけど、この男はずっと同じことを繰り返しやっているのだな、と感じた。その予想に違わず本作は、かつてと同じことをやっていた。しかも約10年越しで『秒速』のバッドエンドを見事に塗り替えたポジティブな映画だった。彼の歩みをリアルタイムで追ってる人たちは、さぞかし感慨深くこの作品を受け止めているんだろうなあ、と思って少しうらやましくなった。

 

新海誠はこの時代に恋愛を描くにあたって、地球と宇宙(『ほしのこえ』)、夢と現実(『雲のむこう』)などという設定を利用して、男女間に距離をつくり、切なさを駆動させているようだった。
ケータイがあって、すぐに連絡が取れて、互いの体に触れ合うことはできなくても、それなりに寂しさをごまかせる時代に生きている我々は、どのような物語だったら恋愛のひとつの醍醐味であった「会えない時間が愛育てるのさ」というロマンを十全に味わえるか。そういうことにチャレンジしているのが新海誠だと思った。
けれど『秒速』では、1990年代前半という、小・中学生がまだケータイを持てない時代に舞台が移ってしまい、せっかくの歩みがストップしてしまったように感じられた(一応言っておくと、おれにとってこの作品はすこぶるおもしろかった。彼のフィルモグラフィーから見ておれが察した彼の狙ってたことと『秒速』のテーマはズレているように思えたけれど、作品単体で見たらおもしろかったということだ)。

 

スマートフォンが普及して、遠く離れているふたりも簡単に連絡を取れるようになった時代。新幹線や飛行機をつかえば、かつてよりはやく、安価に、距離をゼロにできる時代。そして、インターネット上で知り合った人と付き合うことが当たり前の時代。そうやって時は確かに移ろったけれど、新海誠の恋愛観は揺るがなかった。
ロマンティックな恋愛を描くためには距離が必要だと、彼は未だに信じている。

 

君の名は。』で採用された男女間に距離を生み出すためのギミックは、時空の異なる地点にいるふたりの男女の身体が入れ替わるというものだった。入れ替わりというSF的設定には、科学的裏付けなんてものは一切されておらず、たまたま運命的にそうなってしまって、そして互いに惹かれあった、という事実だけがある。
たまたま、運命的に、そうなってしまった。われわれが生きる現実で無数に起こっている出会いのたいていもそんなもんだろう。
だからそこに科学的裏付けなんてものは必要ない。運命について考えるのは、どちらかといえば、科学ではなくって哲学の仕事なのではないか。

 


この映画に没入できなかった人たちの一部に、本作の設定に納得がいかない、と言っている人たちがいて、それってなんだか変だなあとかすかに感じた。彼らの納得のいかなさって映画のせいじゃなくて彼らのスタンスがズレているからだろう。
たぶんだけど、「新宿駅なのに京浜東北線が〜」うんぬん言ってる人が、李相日『怒り』で広瀬すずがレイプされる前に迷い込む道を見ても、「那覇市のこの辺りはここまで物騒じゃないよ」とは言わないだろう。『怒り』の那覇・桜坂が米兵の集う町となったのは物語が要請したのだろうし、あるいは、桜坂に米兵がいた方が「悲惨な沖縄」というものを描きやすかったから、というのも理由のひとつかもしれない。

 

映画に徹底的なリアリティーを求める人たちは自分のいるリアルの半径の狭さに気づいているんだろうか。
まあいいや。とにかくおれは『君の名は。』超好き。

 

 

あと、災害ってのはあらかじめ防げるものではないから破壊が約束されていて、その点が好ましかった。やっぱり町が壊れていく光景を見るのは気持ちがいい。『ミッション:インポッシブル ゴーストプロトコル』でミサイルがビルをかすめて不発のまま海に落ちたときは本当にガッカリした。誰も死なずに町が滅びる。そういうのを見せてくれるフィクションは最高に気持ちが良い。