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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

黒子ちゃん

雑記

ペットボトルから水を飲みながら、急いでエスカレーターを歩いていたら、右足のサンダルの先がステップに引っかかって、つんのめった。右手にペットボトルを持ち口にあてて東京のエスカレーターを歩いていたおれは、体を右手で支える代わりに、右胸を手すりにぶち当てるというかたちで、転けるのを回避した。ぶつけたとき、たしかに右胸は痛んだけれど、痛みはすぐになくなった。ペットボトルの飲みくちがぶつかったせいで、唇が少し切れた。
盛大につんのめったのが恥ずかしかったおれは、はにかみながらステップを駆け上がった。一刻前におれの頬を染め上げた羞恥心を、誰にともなくごまかすためだった。

 


小学生のとき、この子は将来きっと女子プロレスラーになるんだろうな、と、おれがひとり勝手に心のなかで決めつけている女の子がいた。彼女はいつも黒いTシャツに黒い短パンで全身真っ黒にキメ、両の手はポケットのなかに隠し、肩で風を切って歩いた。カッコつけているように見えたけれど、別に滑稽ではなかった。
彼女はえらい寡黙で、かといって内気というわけではなかった。時にはふつうに笑うこともあっただろう。でも、彼女が誰かと話しているのを見た覚えがない。


ある日の帰りの会、先生が言った。「黒子ちゃんが階段で転び、顔をケガしました。みんなもポケットに手を突っ込んで歩かないように気をつけて下さい」。
いつもポケットに手を突っ込んで歩く彼女は転んだとき、体を支えるための手が出てこなかったのだろう。そして、顔面を階段にぶつけた。
彼女のいない教室で、誰もが想像したその光景はとてもおかしくて、だから誰からともなく笑いが起きた。


数日後クラスにやってきた黒子ちゃんの鼻は折れているらしく、白いガーゼが貼られていた。でも、それ以外、彼女に変わった様子はなかった。そして誰も笑わなかった。
おれの目にはその姿がなんだかとても痛々しく見えて、だからそのときのことはよく覚えている。恥ずかしいのなら、照れ笑いのひとつでもしたらラクなのに、と思った。いまに思えば、彼女は本当にこれっぽっちも恥ずかしくなかったのかもしれない。
黒子ちゃんはいつもどおり、上下真っ黒で寡黙だった。
ただ、それ以来おれは、ポケットに手を突っ込んでいる歩く彼女の姿を、いちども見た記憶がない。

 

 

そんなことを、東京のエスカレーターでつまずいて、思い出した。

 

何者でもない (講談社文庫)

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