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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

わからないまま

雑記

「運転手さん、人が倒れました」という女性の声を合図に、多くの人を乗せたバスはゆっくりと停車する。
バスの中央部に、目を閉じて口から泡を吹き、手足を小刻みに震わせている男がいる。人を掻き分け歩み寄った運転手が男に声をかけるが、応答はない。運転手はバスを降りて消防車を呼んだ。
消防車が来るまでのあいだ、男は痙攣しつづけた。運転手以外、誰ひとりとして彼に声をかけなかった。中学生くらいの男子たちは笑いあっている。女は恋人に抱きついている。(おそらく)2児の父は顔をゆがめている。
すぐにやってきた救急隊は、男にAEDを当てた。電気ショックの必要はないものの、隊員は男に心臓マッサージと人口呼吸を施していた。
男に意識が戻る前に、救急車がやってきて、彼は担架で運ばれていった。バスの乗客はみな降車させられ、別のバスに乗り再び目的地に向かっていった。バスが止まっていたのは真っ暗の田んぼ道だった。


「交番はどこ?」。駅からの帰り道、自宅前で腰が100度曲がったおばあさんに呼び止められる。捕まってしまった、と思いながら、どうしましたか?と苦笑いで聞くと、コンビニで買物をするためにタクシーを一時降車したのだけれど、買物を終えて外に出るとそのタクシーが消えていた、と彼女は言った。そのタクシーの座席には彼女が買ったケーキや昆布やペットボトルのお茶が残されたままらしい。おばあさんは自分が乗っていたタクシーが所属する会社も車の色も覚えていない。
炎天下のなか、おばあさんを自宅アパートの日陰にある植込みに座らせ、走って駅のすぐそばにある交番へ行き、お巡りさんを呼んでやった。お巡りさんは「タクシーに忘れものしたおばあさんがいるってお兄さんがおっしゃってるので、行ってきます」と交番奥にいる誰かに言い残して自転車に乗った。
再び自宅アパートに着くと、エントランス前でおばあさんとお巡りさんが話していた。「とは言ってもね、奥さんの乗ってたタクシーの会社名も色もわからないようじゃ、僕らだって対応のしようがないんですよ」。お巡りさんは存外冷たい口調でおばあさんをたしなめていた。彼と目のあった僕は、「よろしくお願いします」と言い残してアパートに入った。おばあさんは伏し目がちに「ありがとうございました」と言った。


「おっぱいにガンが見つかったの」と先生は言った。極めて初期だから問題はないはずなんだけど、一応ガンだからさ、伝えとこうと思って、と彼女は言った。そのあとも飲みながらいろんな話をして僕らは別れた。以来、先生とは連絡を取っていない。



痙攣する男の生死も、おばあさんの荷物の行方も、先生のガンも、どうなったのか僕にはわからない。こんな感じのわからないままのことがきっとたくさんある。わかろうと思えば知れることもたくさんある。せめて、できることだけはやりたい、と思う。