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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

遺言

雑記

故人のことを思い出す日に、門をくぐってやってきた人たち。そのうちの何人か。自分たちの近況を雄弁に語ってくれた方々。遺族はみな人見知りぎみだから、そんなに親しくない弔問客は、沈黙を嫌って気を遣ってか、たくさん喋る。


なんかの木箱を家の倉庫でひとりしこしこ作って家族を養っていたけれど、大きな工場に仕事を取られてからは、弁当屋に看板を掛け替えそれなりに繁盛した。しかしその後ちょっと色々あって辞めざるを得なくなり、いまは清掃の仕事をしている近所のおじさん。子供3人をしっかり育てたけれど(から?)、彼の奥さんはとってもくたびれていた。


あの家はひとりで住むには広すぎるから、次男家族をそこに住まわせて、自分はアパートにでも移ろうかな、と提案しても息子はろくに耳を貸さない。長男には、遊ばせているだけの土地をやるからそこに家建てたら?と話しかけても、本気で考えてくれない。「ふつうの人は土地を買って家を建てるけど、あんたは家建てるだけ。半分で済むのよ」と言っても聞かないの。


死んだ犬の話をするおじいさん。火葬には3万かかった。買ったときは20万だった。餌代はバカにならなかった。ちょっと診察しただけで8千円、病院費は高すぎだ、犬がほんとに心臓病になるのか? 騙されてる気がするよあれは。愛犬の死に接するのはあまりにもつらいから、「アレ」が死んで以来、犬は飼ってないと彼は言う。




天皇陛下の「お気持ち表明」的な行為は、すべての家庭で行われるべきだと俺は思った。
自分の死を大事として扱わないでほしい、というようなことをおっしゃられていた気がした。
これからの時代、というかすでに葬祭は簡略化される傾向にある。煩雑な儀式を行うのは、経済的にも身体的にも精神的にもしんどい。だから、簡便にする。葬祭を質素にしたり、簡略化したからといって、故人がないがしろにされているわけではない。
それぞれのやり方で。遺族は故人の意を汲んだうえで、遺された人たちは霊を偲ぶ。


死は万人に訪れるものだし、誰もが誰かの死を経験しながら生きていく。死は珍しいものじゃない。もし天皇陛下のお気持ちが最大限尊重されたら、日本人の死生観は大きく変化するのではないだろうか。そんなことを考えた。



葬儀会社?の法事用パンフレットにはお悔やみ申し上げます、と書いてあったんだけど、べつにすべての死が悔やまれるものだとは思わない。こないだ地元のテレビ局が流しているニュース番組で「散骨」が特集されていた。
長い闘病生活の末、生前の希望にのっとって、友人の手により彼女は真っ青の海に白く漂っていった。友人は、悔しそうだったけれどどこか清々しそうでもあった。
彼女の意志に従って葬ってやることができたからだろう。


俺の母親も生前冗談交じりに私が死んだら海に撒いて、と言っていたけれど、いまもまだ骨壺のなかに入って仏壇のまえで眠っている。


死んだ人の永遠を、遺された人たちだけで決めるのは、しんどい。