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ひとつ恋でもしてみようか

いつも同じようなことを言っている

余裕  ―障害者殺傷事件によせて

雑記

テレビは相模原の障害者施設で起こった大量殺人事件を、まったく身勝手な、英雄気取りの、歪んだ自己愛の持ち主が引き起こした、惨劇として取り上げている。到底理解できない男による凶行。
亡くなった幾人もの犠牲者たちは「遺族の感情と要望に配慮」したうえで名前を剥奪された。彼らの固有性は隠匿されていて、それは意図せずとも、容疑者の主張に沿った事態の進行を招いていないか、と僕は感じる(これからの報道は、あらゆる殺人・傷害事件において、今回の報道と同様に被害者の実名を公開すべきではない、という意見は正しいかもしれない。けど、この事件において被害者の名前が伏せられているのは「障害者だから」ではないだろうか? だとしたら、上で挙げた意見と、今回の報道姿勢は分けて考えるべきだと僕は思う)。


マスメディアの報道の一方で、SNS上では「これはテロだ」だと言われていたり、社会から隔離された障害者たちとその介護者たちにかかる過重な負担が放置されているいま、起こるべくして起こった事件だと指摘されていたりする。



容疑者が衆議院議長に宛てた手紙には、過剰な論理の飛躍がたしかに見られるけれど、驚くべき跳躍の前にあった彼の現状認識を真っ向から否定できる人間は、そんなに多くないはずだ。
この施設でじっさいに働いていた容疑者の目から見たとき、知的障害者たちは自身の人生における都度都度の選択をできるような判断力を持たず、仮に選択ができたとしてもそれを実行出来るだけの行動力がないように思われたのかもしれない(この想定は、僕自身の知的障害者の人たちへの偏見が露わになっている。僕は障害者のことをよく知らないのだ)。だから容疑者は「保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳」に共感し、「障害者が安楽死できる世界を」望んだのかもしれない。
ひとりの、文字通り無力な人間を支えるために必要なコストは、僕には想像もできないくらい大きなもので、そのコストは家族や介護者たちの体力に徹底的に依存し、彼らのこころにも大きなプレッシャーを強いるかたちで、支払われているのだろう。

もちろん容疑者の結論を下すまでのプロセスはあまりにも短絡しているし、仮にその結論が「最大多数の最大幸福」を約束したとしても、それを実行する権利は、容疑者はもちろんのこと、他の誰も持たない。
けれども、容疑者の思考がぐるぐるするキッカケとなった、彼の現状認識と障害者の家族と介護者への共感は、徹頭徹尾狂っているものだったとは僕には思えなくて、かんたんに退けることもできない(もちろん家族と介護者のなかには、そんな共感や同情は余計なお世話だと憤る人も多いだろうけど)。
僕と同じような複雑な気持ちになっている人は少なからずいるはずだ。



誤解してほしくないのだけれど、僕は容疑者に共感したり共鳴したりしているわけではない。
この事件はきっと現代日本の障害者と介護をめぐる問題を考えるキッカケになるものだろうと、僕が思っていることをここに書き残して覚えておきたいというのが、ここまでこの文章を続けた理由だ。
現時点ではまだ容疑者の意図もこれまでの人生も、事件現場となった介護施設の労働環境もよくわからないからこういう文章は書いてはならなかったのかもしれない。それでもやっぱりこの衝撃が生々しいあいだに感想を残しておくことは、無意味じゃないと思った。




ここからは自分の現状に引きつけて少しだけ考えてみる。

 

僕は長いことニートをやっていて、堕落した生活のなかで徐々に「働かざるもの食うべからず」の価値観を内面化していって、それでも飯はよく食うのだけれど、その代わりに自分の意見が無価値だと思うようになってった。
自分の食いぶちもろくに確保できない人間の意見は、ふわふわした、実態の伴わないからっぽなものだろう。誰にも相手にされないだろう。僕が何かを喋ったところで無意味だろう。だったら最初から口をつぐめばいい。
そうやってここ何年かの僕は、自身を縛っていき、息苦しかった。
自分が「生きるに値しない生」に近づいていく感じが強くなるにつれて、外へ向かっていく気持ちも削がれていき、就職活動からはますます遠ざかった。
ニート状態から脱するという発想自体が失われて、毎日毎日ひとりで鬱屈していた。
もちろん、僕がニートであることは、自身の勇気と決断と行動で変えられるものだから、障害者をめぐる問題とは異なる。でも、「何もできない」と「何もしていない」は事情を知らない他人から見れば同じ事態かもしれなくて、というか「できるのにやらない」(ように見える)人間のほうが、もともと「何もできない」人たちよりもよっぽどタチが悪くて、もしかしたら容疑者は、僕のようなニートのことをも「不幸を作ることしかできない」人間だと思っていたかもしれない。
だから昨日からの僕は、殺されないために履歴書を書かなくてはならなくなったような気がした。
生きるため、じゃなくて、殺されないためだ。




「健全者幻想」という言葉があって、それは五体満足の体こそが「本来あるべき姿」であって、そうでない身体は否定されるというものだ。
この幻想の厄介なところは、おうおうにして「障害者」自身もそれを抱いていて、彼ら自身「健常者」への憧れを持っているという点だ。「内なる健全者幻想」と言われるこの障害者の「健常者への憧れ」は、《障害者/健常者》の二項対立だけではなく、あらゆる問題にも当てはめることができる。
ある種のフェミニストは「男性と対等の権利」を求めていて、それは「男性的成功」こそが至高であるという価値観に基づいたものだろうし、《沖縄/本土》の対立においては「本土=日本」のようになりたい、という憧れを抱いていた沖縄の人々もいた(いる)だろう。
女性としての、あるいは性別以前の個人としてのしあわせを求めるのではなく、男性のようになりたいと思ってしまうこと、沖縄としてのアイデンティティーを深化させたり独自のスタイルで歩むことを模索するのではなく、本土並みになりたいと願うこと、それらは「内なる健全者幻想」の一例なのかもしれない(もちろん「男性的成功」を欲している人なら誰もがそれを目指せるような、地域固有の特徴を活かせるような、そんな環境づくりを進めるのはとうぜんだ)。

 



僕は、ニートである自分の現状を肯定したいわけではない。なぜなら、僕は心のどこかで「働いてみたい」と思っていることに、さいきん気づいたから。
「働いている人たちが正しい」と感じているから「働かなくては」と焦るのではなく、僕自身が働きたい、と思っていてムズムズしているはずなのだ。「内なる健全者幻想」に絡めとられて「働かねば」と思っているのではなく、働くことへの欲求があるのだ。
でも同時に、心のなかでは「働きたい」と思っているけど「働いていない人」は、他人から見ればやっぱりただの「働かない人」で、働かない人たちは、この余裕のない社会のなかでは、無意味で無駄で抹殺すべき存在だと認識される可能性があるということが明らかになったいま、「ムズムズしているはずなのだ」なんて悠長なことも言ってられないのかもしれない。



社会は、誰もが一様に画一的な「あるべき姿」に向かうことを強いる装置ではなく、すべての人たちがありたいようにあれる場所にならなくてはいけない。誰かの生活を、生命を、尊厳を奪わない範囲で、自身が心の底から求める理想を実現できるよう努力ができるような社会を僕らは求めたかったはずなのに、いつのまにか「あるべき姿」、言い換えれば「内なる健全者幻想」に翻弄されて、自分で自分の首を絞めている。


心底働きたくない人間が、働かなくても生きていけるような社会。働くことのできない人間の生命と人間らしい生活が保障される余裕ある社会。それこそが多くのひとをしあわせにするはずだ。
そんな社会は絵空事で、それを心から求めるのは現実を知らないニートの戯れ言なのかもしれないけれど、そんな社会が実現して憤るひとはいない、と僕は思う。

 


取り返しの付かない悲劇にかこつけて、矮小な自分事を話してしまったような気がしないでもないけれど、この事件を考えることがひいては自分自身を捉え直すことになる、というのが、いまの僕にはとって大切なことだった。